ブログをご覧いただきありがとうございます。
本日は
【初めての小笠原諸島旅行記】
その12をお届けします。
★前回の記事★
首のない二宮金次郎像
引き続き、
父島を1周するため夜明け道路を原付で走り、
初寝浦展望台までやってきました。
駐車場のそばにはこんな銅像が立っています。

昔、小学校などに置かれていたという
二宮金次郎の像です。
歩きスマホやながらスマホが
社会問題になっている昨今ですが、
歩き読書はその先駆けといえるのでは?(笑)
それは置いといて…
よく見るとこの像、
首がありません。
今は無き首は
父島にいた米兵が持って帰ったと言われています。
父島は終戦の1945年から1968年まで、
米軍の統治下にあったのです。
小笠原諸島は全島民が疎開

1941年12月8日、
ハワイの真珠湾に日本軍が奇襲を仕掛けたことで
太平洋戦争がはじまりました。
ただ、その後の戦いは全て
日本本土からは離れた遠い南の島で行われていたため、
人々の暮らしに大きな変化はなかったようです。
しかも、流れてくるのは
勝利のニュースだけ。
誰もが「日本軍は強い」と信じていましたが、
戦況は次第に悪化。
小笠原諸島の島民は全員、
本土へ疎開するよう命令が出されたました。
現在も一般人が住んでいるのは父島と母島のみ

合計で30以上の島々がある小笠原諸島ですが、
現在、一般人が住んでいるのは父島と母島のみ。
かつては色々な島に人が住んでおり、
小笠原諸島全体でおよそ7000人が
住んでいたのですが、この「全島民疎開」以降、
父島と母島以外は基本的に無人島になっています。
硫黄島での戦い

小笠原の南方にあるグアムやサイパンも陥落し、
1945年2月19日
いよいよ米軍が小笠原諸島のひとつ
「硫黄島」に上陸し、
日本で最初の地上戦が始まりました。
この小さな島で日本軍と米軍の
およそ1か月にも及ぶ激しい戦いが行われました。
アメリカの目的は「本土空襲のための拠点確保」。
要は飛行場が欲しかったんですね。
硫黄島に派遣された日本兵の96%にも及ぶ
2万人以上が戦死または行方不明になっています。
米軍の戦死または負傷した方の数は、
日本軍のそれを上回っています。
沖縄で「唯一の地上戦が行われた」?
残念ながら沖縄では
「沖縄は日本で唯一の地上戦が行われた地」
と語られることが多いのです。
この写真は沖縄戦で米軍が上陸したとされる地に
置かれている石碑なのですが、
「日本で唯一の悲惨な地上戦」と書かれています。
「唯一の住民を巻き込んだ地上戦」
なら正しいのですが…
硫黄島のいま

太平洋戦争でも屈指の激戦が行われた硫黄島。
「硫黄島からの手紙」
という映画にもなり、「いおうとう」という
名前を知っている人も多いような気がします。
島は現在、島全体が自衛隊の基地になっており、
一般人はもちろん、
元島民の方でも上陸が認められていません。
父島や母島で地上戦はありませんでしたが、
現在でもそうした戦争の跡は
山にも海にも残されています。
米軍統治下の小笠原諸島

父島にも空襲は襲い、
多くの日本兵の方が亡くなっています。
戦争が終わっても、しばらくの間は
欧米系島民以外の帰島は許されませんでした。

米軍統治下の時代、米軍は自分たちの
施設周辺以外には手を付けなかったそうです。
そのため、
戦前に暮らしていた人々の生活によって
破壊された植生や生態系がこの期間に回復し、
現在の小笠原を支える観光資源になっています。
小笠原の美しい自然の裏には悲しい歴史があります。
現在も島に残る戦争の跡をたどる
「戦跡ツアー」もあるので
興味のある方は参加されるのがおすすめです。
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ということで今回はここまで。
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本日もありがとうございました。
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