首里城にある第32軍司令部壕とそこで決定された「南部撤退」|戦後75年 沖縄戦の戦跡を巡る旅 旅行記その7

南国日記~沖縄移住の記録~

ブログをご覧いただきありがとうございます。

今回は
沖縄戦の戦跡を巡る旅」その7
をお届けします。

★前回の記事★

日本軍の拠点が置かれた首里城

沖縄戦では約3カ月で
日米合わせて20万人以上の方が亡くなりました。

ここまで多くの犠牲者が出たのは
住民が巻き込まれた
というのが大きな理由となっています。

「まさか沖縄で戦争が行われるなんて」
「もし戦争になっても日本軍が守ってくれる」

こうした理由から疎開も
なかなか進まなかったそうです。

沖縄戦における
日本軍の司令部は首里城に置かれました。

ちなみに、「城跡」というのは
首里城が古くから
焼失と再建を繰り返しているから。

沖縄戦によって4度目の焼失となりました。

2019年の焼失は5度目。
戦後復興の過程で再建されたこともあり
人々の悲しみは大きなものになりました。

戦後は琉球大学がこの場所に建てられたことから
「琉球大学の碑」も建てられています。

今では沖縄を代表する観光地である一方で、
沖縄戦で使われた日本軍の司令部壕が
現在も保存されていることを
知っている人は少ないのではないでしょうか。

園比屋武御嶽のそばにある「第32軍司令部壕
中に入ることは出来ませんが、
入口の様子は覗くことが出来ます。

第32軍司令部壕

首里城の地下部分に
およそ1km以上にわたる壕が掘られ
1000人以上の兵士がいたとされています。

ただ、当時の様子など、
詳しいことは分かっていません。
これは、崩落の危険などから
内部の調査があまり行われていないからです。

戦後75年を迎え、
公開と保存を求める声が高まっています

日本の戦国時代を考えると分かりやすいですが
当時の戦国大名は城を築き、
そこを拠点に戦いを繰り広げました。

多くの場合、城が敵に攻められると、
殿が自ら命を絶って戦いは終わります。

沖縄戦でも、沖縄本島に上陸した米軍は
飛行場獲得という目的を果たし、
戦いを終わらせるため首里城を目指しました。

5月末、いよいよ米軍がすぐそばまで迫ったとき
日本軍は「南部撤退」という決定を下しました。

これは日本軍が首里城を放棄して、
司令部を摩文仁(現在の平和祈念公園)へ移動し
戦いを続けるということです。

日本軍による南部撤退

首里城では再建工事が始まっていました。

南部撤退が決まった5月末、
日本軍の兵力はすでに3分の2以上が失われており
勝ち目はほとんどない状況でした。

というよりも、日本軍の沖縄戦のゴールは
「米軍に勝つこと」ではなく
米軍の本土攻撃を遅らせること」だったのです。

当時の様子をまとめると以下のようになります。

南部は沖縄に残された住民が
多く避難していた場所でした。

沖縄戦が終わるまでの残り1カ月は
そこが激戦の場となり、
沖縄戦における住民の犠牲者のおよそ半数が
この時期に亡くなりました。

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ということで今回はここまで。

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