首里城から摩文仁の丘へ。沖縄戦終結の地とバクナー慰霊碑|戦後75年 沖縄戦の戦跡を巡る旅 旅行記 最終話

南国日記~沖縄移住の記録~

ブログをご覧いただきありがとうございます。

今回は
沖縄戦の戦跡を巡る旅」最終話
をお届けします。

★前回の記事★

日本軍による南部撤退

1945年5月末、米軍が首里城に迫り、
日本軍によって
南部撤退」という決定がなされます。

南部というのは沖縄本島の南部を指します。

日本軍の拠点は、現在、
平和祈念公園として整備されている
「摩文仁(まぶに)」へと移動されました。

首里城を攻略した米軍も、
日本軍を追って南部へと侵攻します。

首里城の次にやってきたのは
ひめゆりの塔」です。

沖縄戦では、現在の中高生にあたる世代も
「学徒隊」として戦争に動員されました。

「ひめゆり」というのはその学徒隊のひとつで
女子生徒たちで編成された部隊で、
主に看護の補助を行いました。

学徒隊とガマ

手前の小さな石碑がひめゆりの塔。

その横にある大きな穴を「ガマ」といいます。
ガマというのは沖縄の方言で「鍾乳洞」のこと。

沖縄本島の南部は
海底の琉球石灰岩が隆起してできた
カルスト地形が広がっており、
こうしたガマが至る所に点在しています。

ガマは主に
「住民の避難場所」「日本軍の陣地」「病院」
として用いられました。

こちらには資料館も併設されていますが、
すでに閉館の時間になっていました。

多くの修学旅行生が訪れる場所であるため、
周辺にはお土産屋さんなどもあります。

次はいよいよ、沖縄戦における
日本軍最後の地「平和祈念公園」へと向かいます。

1945年6月23日 沖縄戦が終わる

平和祈念公園にやってきました。

奥に見えている木々のある場所が「摩文仁の丘

日本軍が拠点とした場所です。

日本軍が南部に移動したことで
住民たちが避難するガマに
日本軍がやってくることもありました。

米軍にしてみれば、住民か日本軍か、
もう見分けがつかない状態となり、
南部撤退以降、多くの住民が犠牲となりました。

また、ガマの中で泣き止まない子供がいたり、
スパイ扱いをされたりして、
日本軍による住民の殺害もありました。

「米軍よりも日本軍が怖かった」
という証言もあるほどです。

1945年6月23日。

日本軍の太田司令官が摩文仁の丘で自決し、
組織的な抵抗は終了しました。

ただ、そんな情報もすぐには広まらないので
その後も一部で抵抗が続いたり、
しばらく住民が隠れているガマもありました。

米軍の犠牲者も忘れてはいけない

そして最後にもう一カ所、やってきた場所は
平和祈念公園にも近い「バクナー慰霊碑」です。

バクナーというのは沖縄戦を指揮した
米軍の司令官のことで
6月18日にこの場所で戦死しました。

沖縄戦では約20万人が犠牲になりました。

この数字には米軍の犠牲者
約1万2千人も含まれています。

このことも忘れてはいけません。

今回の旅では沖縄戦の跡を辿り、
様々なことを学ぶことが出来ました。

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ということで、今回はここまで。
本日もありがとうございました!

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