フェリーあぐに乗船!日帰りで粟国島へ ソテツの島を歩いて観光してみた|2021 沖縄旅行記

南国日記~沖縄移住の記録~

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今回は「2021年 粟国島旅行記」をご紹介します。

台風の海へ!フェリーあぐに乗船

2021年9月29日、この日は仕事が休みだったので、朝のカフェに足を運ぶ感覚で那覇空港にやって来ました。

那覇空港の開館時間は6時~24時まで。まだお店のシャッターは閉まっていて、歩いている人もまばらです。

那覇空港の始発便は6時35分のスカイマーク神戸行き。しかし、この日はその便が欠航だったので、7時5分発のJTA福岡行きが始発便でした。

空港のファミリーマートで朝食を調達し、飛行機が見える特等席で作業開始。

海の方を見ると、空港の沖合に大きなコンテナ船が停泊していました。

船の情報を見ることが出来るアプリをチェックすると、ブリズベンから来ている貨物船のようです。

こちらは、この日の沖縄本島周辺の波の様子。小笠原諸島方面から台風が近づいている影響で、本島の東側は波が高くなっている一方で、西側は島が防波堤となり、波が落ち着いている様子が分かります。コンテナ船が停泊しているのも、恐らくこれが理由でしょう。

ということで、空港から今度は、沖縄本島周辺の島へ渡る船が出ている港「とまりん」へやって来ました。慶良間諸島へ向かう高速船は欠航となっていましたが、他のフェリーは運航されるようです。

せっかくなので「フェリーあぐに」に乗船し、まだ行ったことが無い粟国島へ日帰りで行ってみることにしました。料金は往復6,590円と、決して安い金額ではありませんが、島の滞在は2時間程度しかありません。

こちらが粟国島へ向かうニューフェリーあぐに。昨年6月に就航した新しい船です。

ちなみに先代の船は現在、佐渡島と直江津を結ぶカーフェリーとして「フェリーあぐに」の名前を残したまま試験運行を行っているそうです。

2階建ての小さな船で、1階は雑魚寝スペース、2階はイス席となっています。

2階へ行くにはエレベータを利用することも出来ます。

自動販売機がありました。さんぴん茶紅茶花伝・シークワーサー味があるのを見ると、沖縄いることを思い出させてくれます。

こちらが2階のイス席

椅子にはテーブルも付いています。

窓側の席の足元には、各席にコンセントが設置されていました。リクライニングも出来るので、なかなか快適に過ごすことが出来ます。

仕事の人向けのテーブル席もありました。もちろんここにもコンセントはばっちりです。

那覇から北西約60kmの海上に浮かぶ粟国島。飛行機だと20分で行くことが出来ますが、船では約2時間かかります。

9時55分、ニューフェリーあぐには那覇・泊港を出港しました。沖縄といえど、那覇港の海の色はこんなもんです。東京・竹芝桟橋とそれほど変わりません。

ちなみに、こちらが竹芝桟橋を出港するおがさわら丸から撮った写真。海だけでなく、港の雰囲気も似ていますが、違うのは船を見送る人の有無でしょうか。沖縄・泊港では、船に向かって手を振る人が誰もいません。

船内のテレビでは、台風のニュースが流れていました。果たしてこの船はどれほど揺れるでしょうか。

私が乗っているフェリーあぐにの後方に小さな船がいましたが、かなり波を被っており、途中で引き返してしまいました

一方こちら、那覇空港から見えていた巨大な貨物船。海へ錨を下しているので、やはりここで台風をやり過ごすのでしょう。パッと見、波の影響は全く受けず、びくともしていません。

そして、フェリーあぐにの揺れ具合はぼちぼち。海面に白波は立っておらず、多少うねりがある程度です。

本当に海が荒れているときは、船の後方のデッキにいても波しぶきを浴びますが、そうしたこともありません。

ただ、海上の風は強く、デッキでは立っているのがやっとの状態でした。

そして、粟国島が見えてきました。島の周辺も波は穏やかで、台風が近くにあるとは思えません。これが、沖縄本島という自然の防波堤の力でしょう。

日帰りで粟国島を観光

12時、「そてつの島 粟国島」に上陸しました。恐竜がいたジュラ紀から存在していたとされるソテツ。粟国島では自生しているソテツが多く、村の木にも指定されています

私が乗ってきたフェリーあぐには、14時に那覇へ向けて折り返し出港するため、それまでの約2時間、島を歩いて観光します。

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タラップに書かれている「むんじゅる」は「麦わら」という意味の「ムンガラ(ムウジャラ)」から派生した言葉。「むんじゅる節」という粟国島発祥の民謡があるそうです。

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港には島の小中学校を卒業する生徒たちが描いた壁画がありました。粟国島には高校がないため、ほとんどの生徒が中学卒業と同時に島外の高校へ通うようです。

こちらはシタリー節の石碑。粟高校進学だけでなく、出稼ぎなどでも島の外へ出る人が多く、安全航海を祈願するとともに、立身出世を願って歌った教訓歌として、粟国島ではシタリー節が歌い継がれているそうです。

粟国村は一島一村の離島。周囲12kmの島に約700人が暮らしており、このマップを見ると島の南に人々の営みがある様子が伺えます。

2020年 国勢調査より

島では「公務」に従事している方が最も多いようです。島の小中学校に勤務している方(=「教育、学習支援業」)を含めると、3割近くの方が公務員となります。また、漁業に従事している方が「0」というのも特徴的です。

令和2年の沖縄県観光要覧によると、粟国島は沖縄の有人島の中で北大東島の次に観光客数が少ない島となっています。

果たしてこの島には何があるのでしょうか。道路に「2.6km マハナ展望台」と書かれていました。この距離なら徒歩でも30分あれば行くことが出来るでしょう。

ノープランで行く当てもなく、島を1周する時間はないので、とりあえず「マハナ展望台」を目指して歩くことにしました。

粟国島がソテツの島と言われる理由

久米島や硫黄鳥島と共に、霧島火山帯の上に一部が連座している粟国島は、地質上火山島に属しているそうです。火山岩とサンゴ礁の隆起で形成された島の雰囲気は、他の沖縄の島々とは少々異なります。

■ 参考:1

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マハナ展望台へ行く道の途中にある「遠見台」が海抜96mで、粟国島の最高地点になるそうです。

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水源が乏しかったため、昔から人々は「トゥージ」と呼ばれる大きな石の桶に、雨水を溜めて生活していました。なお、粟国島には貝塚もあり、古くから人が定住していたと考えられていますが、詳しいことは分かっていないようです。

樹木もなかなか育たない中で、飢饉対策のために植えられたソテツは、乾燥に強く、しっかりと根付いたのでした。

琉球王国時代は米の代わりに「粟」を生産し、貢納品としていたことが島の名前の由来とも言われています。1600年代初期に、沖縄へ甘藷(=芋)が伝わると、芋を常食とし、麦や粟も食しながら、飢餓の時はソテツの実を食用としたそうです。

■ 参考:2
■ 参考:3

マンホールにもソテツが描かれていました

奄美群島でもソテツの実を食べていた時期がありました。1747年に「換糖上納令(米を黒糖に換算して税として納める)」が出されると、厳しい年貢の取り立てにより食べ物が無くなったため、1850年頃まで米の代わりにソテツを食べていたそうです。

■ 参考:4

現在も奄美では「ソテツ味噌(ナリ味噌)」が伝統的な調味料として食されています。ソテツ味噌は、ソテツの実を、米や麦の代わりに仕込んだもの。粟国島も沖縄県内で唯一ソテツみそを作っている地域です。

■ 参考:5

島の最西端「マハナ展望台」まで歩く

牛さんと目が合いました。どうやら島の農業はサトウキビと畜産、もちきびや玉ねぎの生産も行われているようです。

マハナ展望台まで1.3km、ちょうど港からの中間地点までやって来ました。「島時間」とは無縁。時間的な余裕は一切ないので、淡々と歩きます。

道端の原っぱに、説明書きが書かれていました。日露戦争期、日本海海戦に向かうロシア海軍の「バルチック艦隊」を最初に発見した日本人が、粟国島出身の奥浜さんだったという内容です。なぜここに設置されているのでしょうか。

こちらは粟国島パークゴルフ場。そこそこ広く、綺麗に整備されています。

12時47分、マハナ展望台に到着しました。島の西端に位置する展望台で、「マハナ」は沖縄の方言で「最も端」という意味があります。

展望台の駐車場には、可愛らしいお手洗いもあります。今回私は歩いていますが、観光協会でレンタサイクルやレンタカーを借りることも出来るようです。

なんと、マハマ展望台にはFree Wi-Fiがありました(笑)やろうと思えば、ここでも仕事が出来てしまうのです。

うっすら見えているのは「久米島」でしょうか。展望台の周辺には草原が広がり、東シナ海の絶景を見ることが出来ます。

那覇までの距離と矢印が書かれています。天気はいいですが、さすがに沖縄本島の姿は見えませんでした。

「伊平屋島」「伊是名島」「伊江島」までの矢印と距離も書かれていました。

この草原の一角に、沖縄戦の時は偽の大砲が設置されていたそうです。米軍は1945年6月9日に粟国島へ上陸。島の人口4千人に対して、米軍の数は4万人。壕に逃れた住民に、米軍が投降を呼びかけ、上陸の翌日に多くの住民が捕虜となりましたが、90名余の方が亡くなったとされています。

■ 参考:6

船の出港までは残り1時間。展望台でゆっくりしている時間はなく、急いで港へ戻りますが、せっかくなので、行きとは異なる道で戻ります。

整備されていますが、街灯や電柱、電線も無い道を歩きます。

ガードレールもありません。夜にこの道を通るのは非常に危険です。

海へ降りる階段を見つけました。時間に余裕はありませんが、せっかくなので駆け足で階段を降りてみます。

到着したヤヒジャ海岸には、大変地味な景色が広がっていました(笑)

しかし、こちらは迫力があり、粟国島が火山の島だった頃の証拠となる場所とされています。

崖の高さは数十メートルにもなり、フェリーあぐにからも大規模な白色凝灰岩で出来た地層を見ることが出来ます。

ヤヒジャ海岸では写真だけ撮って、走って階段を上り…

そのまま小走りで、何とか船の出港までに港へ戻ってくることが出来ました。

さらば粟国島。あっという間の2時間でした。ちなみに、帰りの船も全く揺れず、快適な船旅となりました。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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