根室・アイヌ・ロシアの関係を知る 始まりは江戸時代|2020年→2021年 年末年始旅行記15

2020年→2021年 年末年始の旅

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今回は【2020年→2021年 年末年始の旅】旅行記その15をお届けします。

★前回の記事★

根室で初詣!サンマみくじを引く

2021年1月1日を、日本最東端・根室で迎えました。

納沙布岬で初日の出を見てから宿に戻り、この日は少し時間に余裕があったので、根室の初詣スポット「金刀比羅神社」へ行くことにしました。

到着しました。ここには漁業、殖産・商業の守護神が祀られており、日本最東端の御朱印もいただけるようです。

なお、日本最東端の神社はこちらではなく、「納沙布金比羅神社」という場所になります。

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サンマ水揚げ量日本一の町・根室ならではおみくじがありました。

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サンマの中に釣り糸を垂らします。サンマにはリングが付けられて、釣り糸の先にはフックが付けられています。

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無事サンマを釣り上げることが出来ました。紙粘土で作られたサンマとおみくじがセットになっています。

結果は末吉。内容は北海道方言で書かれています。こちらは「えぞみくじ」というおみくじの一種で、道内の他の場所にもいくつかご当地みくじが置かれているそうです。

コロナの影響により、手水舎の利用は中止となっていました。

境内の至る所で感染対策が呼びかけられていました。

お賽銭もアルコール消毒をしてから

初詣を済ませ、ここからは日本最東端の駅・東根室駅まで歩くことにしました。

根室開拓の歴史

金刀比羅神社から東根室駅までは約3km。根室市街地の地図を見ると、碁盤の目状となっており、明治以降の開拓で発展した町であることが分かります。

こちらは歩いている途中で見つけた「輝く144周年 花咲小学校」という看板。144年前は1877年なので、いわゆる明治初期の時代です。つまり、根室にはそれよりも前から、人々が暮らしていたということになります。

根室の港

根室には約8000年前からの遺跡(続縄文文化・擦文文化・オホーツク文化・アイヌ文化)が点在していますが、詳しいことは分かっていないそうです。根室の本格的な開拓は、現在の北方領土の開拓が深く関わっています

運上屋の設置から開拓が本格化

こちらは金刀比羅神社からの景色。海の向こうにうっすらと山々が見えています。

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最初は「あれが北方領土か」と思いましたが、案内板を確認すると、見えているのは前日に訪れた雌阿寒・雄阿寒・摩周といった山々のようです。

羅臼町から見た国後島(夏)

江戸時代は、松前藩が北海道全域を支配していました。松前藩の「新羅之記録」によると、17世紀初頭から、アイヌの人々がラッコの毛皮などが持ち込まれており、それらの産地が千島列島や北方四島でした。1715年、松前藩主は幕府に対し、「北海道本島・千島列島・カムチャツカ・樺太は松前藩領で自分が統治している」という報告もしています。

松前藩主が「自分が統治している」と言っても、実質は商業知行制が導入されており、土地を与えられた家臣がアイヌとの交易を行っていました。1720年、11代目藩主となった松前邦広の財政改善の取り組みにより、商業知行制から場所請負制への移行が進みます。「商場所」などと呼ばれた交易場所の運営を商人に委ねられ、藩や家臣は税金を得ることが出来るようになりました。

1754年、国後島~択捉島が松前藩の家臣の支配地(知行)になる【場所が設置される】と、場所請負制が敷かれ、飛騨屋久兵衛が交易を請け負いました。そして、商場所の出張所「運上屋」が根室に置かれたところから、本格的な開拓が始まったとされています。

つまり、根室の開拓は明治時代ではなく、江戸時代から始まっていたということになります。金刀比羅神社の始まりもまた1806年なので江戸時代です。

ターニングポイントはクナシリ・メナシの戦い

根室の道端にて 雪だるまを作っているようです

場所請負制が普及すると、藩や商人は長時間労働・低賃金など、アイヌの人々を酷使するようになります。北海道各地でアイヌ民族の蜂起が起こり、1789年、根室でも「クナシリ・メナシの戦い(和人vsアイヌ)」がありました。

戦いの首謀者は、ノッカマップ岬で処刑されました。これをきっかけに、松前藩の「運上所(貿易取締り関税徴収を行う機関)」が、ノッカマップ岬から移動し、現在の根室市街地が形成されることとなります。

根室の道端にて アヒルボートも冬は陸上で過ごします

また18世紀からは、アイヌの交易品だったラッコなどの毛皮を求めて、ロシアが択捉島までやって来ていました。江戸幕府が危惧したのは、クナシリ・メナシの戦いをきっかけに、アイヌの方からロシアに近づく可能性です。

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1792年、ロシア使節ラクスマンが根室来航し、漂流民を届けると同時に、絶賛鎖国中の江戸幕府に通商を求めました。もちろん幕府はこれを拒否。1799年、幕府は北方四島の直接統治を決定し、開発のため淡路島出身の高田屋嘉兵衛らが派遣されました。金刀比羅神社を建立したのも嘉兵衛さんで、現在は銅像が置かれています。

ロシアとの国境争いが本格化

この時期から、日本とロシアの国境争いが本格化します。

こちらは納沙布岬。初日の出に照らされた平べったい島が見えています。こちらは北方領土のひとつ・水晶島納沙布岬からは7kmほどしか離れていません。Wikipediaによると、現在は定住している人はいないそうですが、ロシア側は国境最前線の島として施設などを置いているそうです。

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こちらは金刀比羅神社の一角にて。北方四島には69社の神社が確認されているそうで、そのうち11社の御神体が根室の金刀比羅神社に預けられています。嘉兵衛さんによって、北方四島開発の礎が築かれた後、南部・津軽両藩(現在の青森県)から藩士が送り込まれ、国後島、択捉島の防備が固められました。

日本の国旗と並んで建てられている看板には「返せ全千島」と書かれています。納沙布岬はじめ、道東では北方領土返還を訴える看板を多く目にします。1804年、江戸幕府に通商を拒否されたロシア使節・レザノフの部下が中心となって、ついにサハリンや択捉島の日本人居住地を襲撃しました(フヴォストフ事件)。

★参考:別海町のホームページが分かりやすいです

語り継がれる北方領土 | 北方領土問題とは | 北方領土 | 町の政策 | 行政情報 | 北海道別海町
北方領土問題の風化が心配される中で、元島民の人たちが当時の島々の様子や暮らしぶり、ソ連軍の侵攻や島から追われたときの話などを聞きたいというリクエストも多くなっています。こ…
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氷に覆われた根室港

その後もいざこざはありながら、嘉兵衛さんの尽力もあり、1855年の日魯通好条約が結ばれました。この条約では、択捉島とウルップ島の間に日露の国境が設定されました。この時まだ江戸時代です。

★参考:嘉兵衛さんの詳細

高田屋嘉兵衛について
司馬遼太郎著『菜の花の沖』の主人公、高田屋嘉兵衛の資料館です。

明治時代から太平洋戦争後

日魯通好条約の後、1868年から、日本は明治政府の時代が始まります。

1869年、千島国が制定されると、千島列島の島々がその管轄下に入りました。北海道の開拓が進むにつれて、根室だけでなく、島にも漁業や開拓目的の移住者が増加しました。2020年、根室市の人口は約25,000人。釧路と同様、急激に人口減少が進んでいます。

納沙布岬周辺にはいくつか建物があり、そのうちのひとつに「北方領土資料館」もあります。樺太千島交換条約、日露戦争後のポーツマス条約を経て、樺太の北緯50度以南と千島全島が日本の領土になりました。

こちらは金刀比羅神社で見つけた千島戦没者慰霊之標。1945年8月9日、日ソ中立条約を無視したソ連が満州や樺太に侵攻。8月18日に千島列島北部・占守島へ上陸すると、激しい地上戦が行われました。

1945年9月3日までに北方四島は占領され、1946年2月、ソ連は北方四島を自国領に編入しました。証言によると、本当に突然、銃を持ったソ連兵士が住民の家にやってきて、島を占領していったようです。

★参考★

歴史の証言 ー元島民が語る北方領土
北方領土が描かれている

その後は、船に乗って根室へ逃げた方もいれば、島に残ってロシアの人々と共に生活していた人もいました。しかし1947年、島に残っていた人々に対し、ソ連は「北海道本土へ戻るか、ソ連人になるか」を迫り、多くの人が島を出ることとなりました。

こちらは、納沙布岬にある「高碕達之助先生」と書かれた塔。1951年のサンフランシスコ平和条約により、日本は樺太の一部と、千島列島に対するすべての権利・権原及び請求権を放棄しました。ここで注意が必要なのは、日本の外務省によると、北方四島は千島列島に含まれないそうです。また、ソ連はこの平和条約に署名していません。

今に続くソ連の占領は厳しく、納沙布岬から約3.7kmに位置する貝殻島周辺では、昆布漁を行う住民が、ソ連に拿捕されることが相次ぎました。高碕達之助氏の尽力により、1963年に民間協定が結ばれ、北方海域で昆布漁の安全操業が出来るようになったそうです。

日本最東端の駅「東根室駅」に到着!最近の根室は、日本とロシアの交流の拠点にもなり、1992年からは毎年、日露住民らのビザなし交流も行われています。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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