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今回は「2017年 九州・沖縄の島を巡る旅」旅行記その4をお届けします。
★前回の記事★
フェリーみしまで硫黄島へ
旅の5日目、博多から深夜バスに乗車し、早朝の鹿児島にやって来ました。

桜島の朝焼けからスタート。この日も島へ渡ります。

鹿児島市からは色々な島へ行くことができますが、私が乗船するのは三島航路です。

硫黄島までの往復乗船券をゲット。学割が適用されたので、料金は5,760円でした。

村営船・フェリーみしまに乗船。鹿児島を出港すると、竹島・硫黄島・黒島の順に、三島村の有人島へ寄港します。

9時半に鹿児島を出港。硫黄島まで約4時間の船旅です。工事関係と思われる方が多く、船内はそれなりに賑わっていました。

フェリーみしまの運航スケジュール上、竹島と硫黄島には日帰りで訪れることが出来ません。今回は硫黄島で1泊し、翌日にまた鹿児島へ戻ってきます。
「硫黄島からの手紙」という映画の舞台にもなっている、小笠原諸島の「硫黄島(いおうとう)」は有名ですが、私が向かっているのは、鹿児島の硫黄島(いおうじま)。両島を区別するため、島の読み方も「とう」と「じま」になっていますが、鹿児島の硫黄島を「薩摩硫黄島」と呼ぶこともあります。

船はそれほど揺れず、硫黄島が見えてきました。白煙を上げるこの山は、標高703mの硫黄岳。ランクAの活火山に指定されています。

この山の影響で、島の海底からは鉄分を多く含んだ温泉が湧出しているため、港の海はこんな感じになっています。楽しみにしていた光景のひとつです。

港の茶色さ加減は、潮の満ち引きや風向きなどによっても変わるそうです。

何も知らない人が硫黄島を訪れて、この海を見たら衝撃を受けるでしょう。それくらい独特の色をしています。

上陸しました!レンタサイクルを借りることも出来ますが、硫黄島は自由に行動出来る範囲がそれほど大きくないので、宿に荷物を置いてから、歩いて島を巡ります。
衝撃的な港の景色 硫黄の香りが漂う
まずは港の様子をじっくり観察。

防波堤を境に、海の色がガラッと変わっています。港内は火山の成分が留まるため、これだけ茶色くなるのでしょう。

ちょうど海の色が「青→緑→茶色」のように変化している様子も見ることが出来ました。

砂浜も赤褐色、テトラポットも下半分は茶色く染まっています。

続いては、この港を上から見下ろすため、約40分ほど坂道を登った場所にある『恋人岬展望台』へ。

パンフレットなどにも使われている、硫黄島を代表をする景色が広がります。天気がいい日には、屋久島や種子島、口永良部島も見えるそうです。

恋人同士で鳴らすと幸せになれる『しあわせの鐘』も設置されていましたが、写真は残っておらず… こうしたものを好むカップルが、硫黄島を訪れることはあるのでしょうか。
★参考:動画で見る硫黄島の海★
続いて向かうのは平家城展望台。

島を歩いていると、島の名前の通り、時おり風に乗って硫黄の独特な香りが漂ってきます。

こうしたワイルドな地形や自然景観を楽しむことが出来ることから、硫黄島は日本最南端のジオパークに認定されています。

恋人岬から1時間ほどで到着しました。ここからは、迫力ある硫黄岳を目の前に見ることが出来ます。

約7300年前、地震や津波によって、南九州の縄文文化を壊滅させたとされる「アカホヤ大噴火」。その噴火によって、硫黄島と竹島の間の海底には『鬼界カルデラ』が形成されました。

鬼界カルデラの火口の直径は20kmにもなり、硫黄島はその外輪山に位置しているのです。

展望台から見える海。こちらにも火山成分が流れ出ているようで、独特の海の色をしています。

また、火山の島ということで、いくつか天然温泉もあります。こちらは海沿いにある東温泉。自然の温泉なのでお金もかかりませんが、更衣室(着替えスペース)は設置されています。

大きめの浴槽が2つと小さめの浴槽が1つ。そっと手をつけるといいお湯加減でしたが、私が訪れたのは滞在2日目、帰りの船に乗る直前だったので、入浴することは出来ず!
鹿児島県のホームページによると、東温泉にも硫黄岳の成分が溶け出し、皮膚病に効果があることから、江戸時代の温泉番付にもその名があったそうです。
硫黄島の歴史は古い
ということは、江戸時代の硫黄島には、すでに人が住んでいたようです。

こちらは平家城展望台にある俊寛という人物の像。平清盛の時代(平安時代末期)、平氏打倒を図った藤原成経・平康頼・俊寛の3人が流刑に処され、都から硫黄島へ流れ着きました。これに加えて、1185年の「壇ノ浦の戦い」に敗れた平家が、崩御した安徳天皇を守りながら硫黄島に辿り着いたという伝説も残されています。

天気がいいと、平家城展望台から鹿児島の開聞岳が見えることもあるそうです。平家は鹿児島方面から敵がやって来ないかを見張るため、この地に平家城を築いたと言われています。

流刑の翌年、平清盛の使いが赦免状(罪を許す旨を記した文書)を持って島へやってきました。しかし、その赦免状に俊寛の名前はなく、他の2人だけが島を離れることとなりました。俊寛は船に乗せてもらうよう泣いて頼んだそうですが、結局その願いは叶わず、37歳の時に硫黄島で亡くなったそうです。

1851年(江戸時代)、薩摩藩主に就任した島津斉彬は、積極的に西洋の文物を取り入れ、様々な事業に取り組みました。そのうちのひとつが、鉄砲と火薬の製造です。戊辰戦争でも活用され、明治初期までの鹿児島は全国を代表する武器製造地域となりました。
そして、火薬の原料に使われたのが、硫黄島の硫黄でした。1871年の廃藩置県で薩摩国が鹿児島県となり、1879年の郡区町村編制法で「郡」が設置されると、現在の三島村&十島村の島々は川辺郡に属することとなりました。その後大島郡となり、現在は鹿児島郡に属しています。

1888年に市制・町村制が公布されると、現在の三島村の島々は十島村に属することとなり、村役場は中之島に置かれました。しかし戦後、口之島以南の島々(トカラ列島・奄美群島・沖縄)がアメリカの統治下に置かれると、十島村は分断されることとなりました。

中之島にあった村役場は鹿児島市内に置かれ、竹島・硫黄島・黒島が十島村として存続。1952年にトカラ列島が日本に返還されたタイミングで、竹島・硫黄島・黒島は三島村、トカラ列島が十島村となりました。現在も三島村と十島村の役場は、鹿児島市内にあります。

ワイルドな自然だけでなく、地理や歴史も面白い硫黄島。島旅に興味がある人におすすめしたい島です。この日の散策はここまでにして、宿へ戻ります。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
☀上陸した島☀
No.34 硫黄島(鹿児島県) 2017.11.25
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