20万人以上が亡くなった沖縄戦。日本軍最後の地・摩文仁の丘へ|戦跡巡り旅行記その6

南国日記~沖縄移住の記録~

ブログをご覧いただきありがとうございます。

今回は「沖縄戦の戦跡を巡る旅」その6をお届けします。

★前回の記事★

ひめゆりの塔

首里城を攻略した米軍は、日本軍を追って南部へ侵攻します。

首里城の次にやってきたのは「ひめゆりの塔」です。

沖縄戦では現在の中高生にあたる世代も、「学徒隊」として戦争に動員されました。

「ひめゆり」は、当時あった21の学徒隊のひとつ。女子生徒たちで編成された部隊で、主に看護の補助を行いました

手前の小さな石碑がひめゆりの塔。

その横にある大きな穴は「ガマ」といいます。ガマは沖縄の方言で「鍾乳洞」のこと。沖縄本島南部は海底の琉球石灰岩が隆起した地形が広がり、こうしたガマが至る所に点在しています。

ガマは主に「住民の避難場所」「日本軍の陣地」「病院」として用いられました。

ひめゆりの塔には資料館も併設されていますが、すでに閉館の時間となっていました。

また、多くの修学旅行生が訪れる場所で、周辺にはお土産屋さんなどもあります。

次はいよいよ、沖縄戦における日本軍最後の地「平和祈念公園(摩文仁の丘)」へ向かいます。

1945年6月23日 沖縄戦が終わる

平和祈念公園にやってきました。奥に見えている、木々に囲まれた丘が「摩文仁の丘」、日本軍が拠点とした場所です。

日本軍が南部に移動したことで、住民たちが避難するガマに日本軍がやってくることもありました。米軍にしてみれば住民か日本軍か、もう見分けがつかない状態となります。

南部撤退以降、多くの住民が犠牲となりました。

また、ガマの中で泣き止まない子供や、スパイ扱いを受けた住民などが、日本軍によって殺害されることもありました。「米軍よりも日本軍が怖かった」という証言もあるほどです。

1945年6月23日。

牛島司令官が摩文仁の丘で自決し、日本軍の組織的な抵抗は終了しました。

ただ、そんな情報もすぐには広まらないので、その後も一部で抵抗が続いたり、しばらく住民が隠れているガマもありました。

米軍の犠牲者も忘れてはいけない

そして最後にもう1カ所、やってきた場所は「バクナー慰霊碑」です。

バクナーは沖縄戦を指揮した米軍の司令官のことで、6月18日にこの場所で戦死しました。

沖縄戦では約20万人が犠牲になりました。

この数字に米軍の犠牲者、約1万2千人も含まれていることも忘れてはいけません。

今回の旅では沖縄戦の跡を辿り、様々なことを学ぶことが出来ました。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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~移住2年目 218日目終了~

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