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今回は【2020年→2021年 年末年始の旅】旅行記その13をお届けします。
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雄阿寒岳の雄大な景色
網走で泊まったゲストハウス・いもだんご村で知り合った方の車に乗せていただき、道東を観光しながら釧路駅まで向かいます。

午前中は主に弟子屈町を観光。午後は釧路市へと入ります。

途中で立派な雄阿寒岳(釧路市)が見えました。標高は1371m。登山道も整備されており、冬でも登ることが出来るそうです。

雄阿寒岳は活火山で、今から1万年ほど前の噴火によって出来たのが、現在の阿寒湖です。
地図を見ると、雄阿寒岳の東に「パンケトー」「ペンケトー」という湖がありますが、もともと2つの湖は阿寒湖と繋がっていました。それが噴火による溶岩流で分断されたのです。

阿寒湖(釧路市)に到着しました。湖は完全に凍っていて、湖面を歩くことが出来る状態。ワカサギ釣りの準備が行われていました。

阿寒町では1890年代後半から、石炭と雌阿寒岳の硫黄採掘が始まりました。
阿寒の歴史とアイヌコタン
1923年、雄別地区で採掘された石炭を運搬することを目的とした雄別炭砿鉄道が開通。 終戦後、石炭・鉄鋼の両産業部門に対して資材・資金を超重点的に投入し、産業全体の拡大を図る「傾斜生産方式」が採用されると、石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ、阿寒は石炭景気に沸いたようです。

たまたま置かれていた温度計はマイナス9度を下回っています。Wikipediaによると、阿寒湖の年平均気温は3.7度、1月と2月の平均最低気温は-17度にもなる環境ですが、全盛期の阿寒町には1万人以上が住んでいました。

炭鉱という仕事があるのはもちろん、人口の増加によって住宅をはじめとした土木・建設や、商店なども増加。しかし、エネルギー資源が石油などに代わる時代が訪れると、1970年に雄別炭鉱は閉山。雄別地区は無人となり、現在は廃墟が残り、ヒグマだけが暮らしていると言われています。

一方で、阿寒湖畔は温泉観光地として、旅館やホテル、お土産屋さんなどが並んでいます。この基礎を築いたのは、鹿児島出身の前田正名という人物です。山梨県知事や農商務省次官などを経て、1900年、釧路に前田製紙合名会社を設立。1906年、阿寒湖周辺の払い下げを受け、開拓に着手しました。

正名氏の死後もその意志は引き継がれ、前田家による湖畔の保全や自然保護などが行われました。3代目・前田光子氏が、アイヌの生活を守るため、土地を無償で提供したことから始まった場所が阿寒湖アイヌコタンです。

「コタン」は、アイヌ語で「集落」を意味する言葉。全道各地のアイヌが集まり、民芸品などのお店を構え、伝統文化を受け継ぎながら生活を営んでいます。この写真はアイヌコタンの中央に建つ【オンネチセ】。「大きな家」の意味があるアートミュージアムです。

【ポンチセ】は「小さい家」。昔のアイヌの民家が再現されています。
山奥の秘湯「野中温泉」
天気は良いですが、なかなかの寒さであるため、阿寒湖周辺も歩いている人は皆無でした。

我々も15分ほどで退散し、続いては「野中温泉(足寄町)」へと向かいます。

到着しました。今回は日帰りでの利用ですが、宿泊も可能です。雌阿寒岳の麓にあり、登山の後の温泉!で利用されることが多いとか。

創業は1919年という歴史ある温泉です。 露天風呂と内湯が1つずつ。露天風呂も入りましたが、頭は極寒にさらされて寒く、身体は熱という環境。これもあまり体験出来ないことです。

すぐ近くに北海道三大秘湖・オンネトーという湖もありますが、野中温泉から先の道は冬季通行止めとなっています。

野中温泉には1時間ほど滞在し、時刻は15時。ここから釧路駅へ向かいます。
釧路が製紙業で栄えた理由
釧路市は日本で7番目に大きな市町村となっています。
阿寒湖も釧路市ですが、阿寒湖から釧路駅までの距離は80km以上!また、阿寒湖周辺は国立公園で、市街地に近い「釧路湿原」も国立公園。ひとつの市に2つの国立公園があるのは釧路市だけです。

2020年の人口は16万5千人ほど。江戸時代の終わり頃、釧路川流域には「釧路アイヌ」と呼ばれる人々が暮らしており、5・6軒で構成された村が、10数ヶ所あったという記録があるそうです。アイヌの人々は、釧路港に訪れる松前藩の船と交易を行っていました。

その後、1899年、釧路港が開拓の拠点に指定されると、釧路は漁業・炭鉱・製紙を中心に発展していきました。気付けば道端の雪も少なくなっており、山を下りてきたことが感じられます。

釧路駅まで11km、この日の目的地・根室までは132kmもあります。

製紙工場の煙突が見えてきました。釧路の製紙業は、先ほどご紹介した前田正名氏が、1900年に設立した「前田製紙合名会社」に始まります。しかし、販売不振や工場設備の不備などで、事業は上手くいかなかったようです。

製紙業は、漢字の通り『紙を製造すること』。木材を薄く砕いた「チップ」を煮込んで、繊維(パルプ)を取り出し、それらを重ね合わせることで紙が完成します。

製紙業は木の近くに工場があった方が、輸送コストを削減することが出来るため「原料指向型工業」と言われています。釧路では、釧路川や阿寒川流域から木材を搬入し、港から搬出することが出来ました。さらに、石炭の鉱山や釧路の人口も、工場を操業するのに有利な条件でした。

前田製紙合名会社の反省を生かし、1920年に操業を開始したのが日本製紙釧路工場です。ここから釧路の製紙業は発展しましたが、紙需要の減退などにより、2021年8月を以って工場の停止が決まりました。基幹産業の衰退は人口にも反映されるため、今後釧路の人口減少はより加速すると思われます。
最近は安価な木材を輸入出来ることから、製紙工場の立地は、大都市の港近くが有利になっており、臨海指向型工業や市場指向型工業に変化していることも影響しているはずです。
釧路から花咲線で根室へ
ということで、釧路駅に到着しました。

網走からここまで車で観光しながら送っていただけたのは、本当にラッキーでした。

ここから根室までは再び汽車の旅。1両編成の花咲線に乗車。根室までは2時間半以上かかります。

間もなく外は暗くなり、車窓の様子は分かりませんでしたが、線路上にいる「動物」の影響で、何度か急停車がありました。「シカかな」と思っていたましたが、動物の正体は翌日に分かりました。

そしてついに、日本最東端・根室までやってきました。

気温はマイナス5度しかありませんが、旭川や、日中に訪れた阿寒湖よりは暖かいです。

年末にわざわざ根室までやってきたのはこれが理由。日本で一番朝日に近い場所で、1月1日、初日の出を迎えます。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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