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今回は【2020年→2021年 年末年始の旅】旅行記その20をお届けします。
★前回の記事★
日高本線の終点・様似駅
苫小牧から日高本線の列車と代行バスを乗り継いで、終点の様似までやって来ました。

様似駅は廃駅となり、現在は観光案内所が置かれているようです。この先にあるアポイ岳は、かんらん岩という岩から出来ているため、森林が発達せず、高山植物の宝庫として知られています。2015年には、ユネスコ世界ジオパークへの加盟も果たしています。

様似駅の開業は1937年。当時、苫小牧から浦河を結んでいた国鉄日高線の延伸により開業しました。そもそもなぜ、この北海道の果ての地まで、日高本線という鉄道が運行されることになったのでしょうか。

静内行きの代行バスがやって来ました。ナンバーが違うので、ここまで来た時とは異なる車両です。

駅周辺にはセイコーマートもセブンイレブンもあり、それなりに栄えていますが、昼食を買う時間はありませんでした。

乗客は私を含め数名、というよりも、様似までやって来た時と車内のメンバーは同じ。住民と思われる方は乗っていません。
日高本線が開業した理由
こちらは様似町の人口…ではなく、日高本線代行バスが走るむかわ町・日高町・新ひだか町・浦河町・様似町を合わせた人口推移です。2020年の人口は約5万7千人となっています。人口減少が著しいことは明らかですが、1980年の時点でも、人口は10万人以下。

むかわ町から様似町までの直線距離は100km。これだけ人が少ない地域に、鉄道を通したところで赤字になるのは目に見えているはずです。それとも、鉄道を通すことで、開拓を促進し、日高地方の発展を目指したのでしょうか。
★参考:鉄道開通で発展した町・北見★

北海道の鉄道の多くは、1896年に公布・施行された北海道鉄道敷設法によって建設されました。1922年に改正鉄道敷設法が公布・施行され、ここに『胆振国苫小牧ヨリ鵡川、日高国浦川、十勝国広尾ヲ経テ帯広ニ至ル鉄道』を建設するとあります。

つまり、日高本線は法律によって建設された鉄道であることが分かります。また、様似駅が終点ではなく、広尾経由で帯広まで至る計画でした。
帯広ー広尾間は1932年に完成し、広尾線として営業していました。しかし、様似駅が開業した1か月前から、日本と中国の戦争(日中戦争)が始まり、本格的な戦争の時代へ突入。様似ー広尾間の線路が繋がることはなく、1987年に広尾線は廃止されました。現在は様似から広尾・襟裳岬を経由し、帯広に至るバスルートがあります。

様似ー広尾間の建設が行われなかった理由として、「地形」はもちろんあると思いますが、開拓と軍事を目的とした戦前の政府の政策(法律)で計画された路線です。戦後になって、わざわざこの区間に鉄道を通す理由もなかったのでしょう。

様似町は、明治期の開拓以前の江戸時代から、海辺川の支流で採金が行われ、繁華な集落が形成されていたそうです。1792年にラスクマンが根室にやって来てからは、松前と千島列島の中間地として、重要拠点に位置付けられました。

服を着ている馬がいました。馬は寒冷地にも適応しやすく、枯れ草が含む微生物の働きで熱を発生させ、体内を温めているそうです。
静内延伸と三井物産・王子製紙

様似から約2時間で静内駅に到着。1926年に日高拓殖鉄道の終点として開業した駅です。

次の鵡川行きのバスまで1時間以上あったので、駅から少し歩いてセイコーマートにやってきました。

思えば北海道に上陸してから、食料はほとんどセイコーマートで調達していましたが、これが今回の旅でラスト・セイコーマートになります。数日分の食料をまとめ買いしました。

16時、鵡川行きの代行バスに乗車。ここから苫小牧までの区間は、王子製紙と三井物産という2社が大きく関係しています。すでに国による鉄道建設は決まっていましたが、三井物産はそれより先に鉄道を敷設することで、沿線の木材(紙の原料)を王子製紙に提供し、さらに路線も売却出来ると考えたようです。
ただし、三井物産が建設したのは佐瑠太(後の富川)という駅まで(1911年延伸・1913年開業)。日高拓殖鉄道は地元有志による請願と王子製紙による資金協力によって開通しました。

つまり、静内には鉄道開通前から人が住んでいたことになります。明治初期、政府から静内・新冠両群の支配を命じられた、洲本城代家老・稲田九郎兵衛邦植(淡路島)の旧家臣546人らが上陸したところから始まったそうです。

三井物産は営利企業です。国に路線を売却することが決まっている以上、投資コストを回収するためには、早く王子製紙に木材を供給しなければなりません。三井物産にとって、静内まで鉄道を建設メリットが全くなかったと思われます。結局1912年、三井物産は路線を王子製紙に譲渡しています。

そして1927年、王子製紙専用路線と日高拓殖鉄道は国に買収され、名称は日高線となり、10年かけて様似まで延伸されました。しかし、そこで戦争が始まり、沿線の開拓どころでは無くなったのです。

鵡川駅に到着。列車はバス客の乗り換えが済み次第すぐに苫小牧へ向け出発しました。こうして歴史を探ると、日高本線廃止(採算が見込めない)は当然とも言えるでしょう。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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