鎖国から明治政府へ~ペリー来航から台湾出兵までの流れが重要|観光アイデア教科書 Vol.28

観光アイデアノート

小笠原諸島や沖縄をはじめ、日本の離島を巡っていると、戦争の遺産に出会うことが多いです。「ウサギの島」として有名になった、瀬戸内海に浮かぶ広島県・大久野島もそのひとつ。

大久野島に今も残る砲台跡

広島湾の東部防衛と日清戦争後の内海防備の必要性から、1897年から1902年にかけて、大久野島と愛媛県小島に芸予要塞が整備され、島内に大砲も置かれました。島をもっと深く旅するために、今回から数回にわたって、私自身が旅先で撮影した写真を用いながら、日本が経験してきた戦争の歴史をまとめていきます。

幕末に締結された不平等条約

1853年、アメリカ人・ペリーが日本を訪れ、200年以上鎖国政策を取っていた江戸幕府に対し開国を求めました。

★参考:ペリーが日本にやって来た理由★

函館の赤レンガ倉庫

翌年(1954年)、日本はアメリカと「日米和親条約」を締結し、薪や石炭・水・食料を補給するため、下田(伊豆)と函館にアメリカ船が入港することを許可。一方で、日米間の貿易は実現せず、日本側だけに義務が課された不平等な内容となっていました。

夜の函館・赤レンガ倉庫

それでも当時の幕府が条約を締結した背景には、1840年~1842年のアヘン戦争でイギリスに敗れた中国(清)が、欧米の植民地になりつつあった現実があるようです。条約締結は日米の友好が前提となるため、日本は当面、アメリカからの武力侵攻を受けないこととなります。

新潟市内

1958年には函館・神奈川・長崎・兵庫・新潟を開港(下田は閉鎖)し、日米商人の自由貿易を認める「日米修好通商条約」を締結。

夕方の神戸港

しかしこの条約もまた、日本で罪を犯したアメリカ人を日本の法律で裁くことが出来なかったり(=治外法権を認める)、貿易の関税を決めるのにアメリカの承認が必要(=関税自主権がない)だったりと、不平等な内容でした。

長崎港

幕府はアメリカに続いて、イギリス・フランス・ロシア・オランダとも同様の条約を結んでおり、戦争のリスクを回避しようとしていることが伺えます。

日本軍のはじまりと台湾出兵

1871年、明治政府は中国(清)と日清修好条規を結びました。近代日本が初めて外国と結んだ対等な内容の条約で、ここから日本は欧米との不平等条約改正を目指すこととなります。

ハウステンボス

一方で、不平等条約は欧米による侵攻の抑止力となっており、条約改正を目指すうえで、軍備の拡張は急務でした。明治政府は1869年に兵部省を設置、1871年には、後に旧日本陸軍となる御親兵が組織されました。

お台場にある砲台跡(江戸時代建設)

同じ頃、政府は軍制の指導を仰ぐため、フランス陸軍士官のマルクリーやミュニエーらを招聘。日本陸軍士官らとともに調査・研究を行い、1875年には、国内の防御要地 として東京湾・紀淡海峡・関門海峡・豊予海峡・鳴門海峡 が選ばれます。そして1880年の観音崎砲台を皮切りに、東京湾に砲台が建設され、近代要塞が誕生することとなります。

★参考:東京湾要塞のひとつ・猿島★

熊本城

1872年に兵部省を廃止し、新たに陸軍省と海軍省が設置されます。さらに1873年には徴兵制を布告し、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本に鎮台(=部隊)を置き、国軍の基礎を整えていきました。

宮古島の海

1871年、台風に遭い台湾に漂着した宮古島の年貢運搬船の乗組員54人が、先住民族「生蕃(せいばん)」に殺害されるという事件が起こりました。当時の宮古島は琉球王国の支配下でしたが、明治政府は日本国民が殺害されたとみなし、1874年に台湾出兵を決定。これが日本軍にとって、初めての海外派兵となりました。

長崎の中華街

当時、台湾は中国(清朝)の領土でしたが、生蕃については統治範囲外であるとし、清朝は関与しない態度を示していました。しかし、日本の出兵は、互いの国土を侵さないことを約束した日清修好条規に反するとして抗議し、撤兵を求めました。

長崎の中華街

明治政府は大久保利通が北京に向かい交渉。駐清イギリス公使ウェードの仲介で、日本軍が台湾に上陸してから約5か月後に「日清両国互換条款」が調印されました。清朝が日本の出兵を『自国民を守るため(義挙)』と認め、見舞金を支払うことを条件に、日本は台湾から撤兵することとなります。

台湾出兵の影響① 琉球が日本になる

これ以降、琉球王国の人々は日本人であると解釈され、1879年に沖縄県が設置されました(琉球処分)。

台湾出兵の影響② 清が北洋艦隊を設立

日本の台湾出兵を受けて、清朝は日本を仮想敵国のようにみなし、軍備の拡張を急ぎました。

ハウステンボスにて

清朝の李鴻章はイギリスとドイツに戦艦を発注し、軍港が整備され、1888年に「北洋艦隊」が設立されます。こうした清朝の動きを明治政府も警戒しており、陸軍は1886年に臨時砲台建築部を創設。本格的に要塞建設を進め、沿岸防備の基盤を整えました。

台湾出兵を助けた三菱商会

日米修好通商条約によって海外との交易を開始した日本。一方で、海運業界に国際競争力のある会社が無く、沿岸輸送はアメリカやイギリスの船会社に独占されつつありました。

マルエーフェリー 那覇出港

1972年、日本国郵便蒸気船会社が設立されます。形式上は株式会社でしたが、半官半民で経営され、東京―大阪・函館・勢州、大阪―長崎などの航路を運航していました。年貢米の輸送も委託され、1874年には、政府の補助を受けて、東京―琉球間にも定期航路を開設します。

ハウステンボス

しかし、明治政府の台湾出兵を助けたのは、日本国郵便蒸気船会社ではなく、岩崎彌太郎の三菱商会でした。政府は当初、台湾までの輸送手段をイギリスやアメリカに頼ることを想定していましたが、両国は中立を理由に協力を拒否します。

ハウステンボス

日本国郵便蒸気船会社は、政府の支援を受けているにも関わらず、三菱に沿岸航路の顧客を奪われることを恐れ、台湾出兵への協力に消極的でした。そこで政府は三菱に協力を依頼。彌太郎氏はこの依頼を受け入れ、兵員・武器・食糧等の輸送に全力を投入しました。

ぱしふぃっくびぃなす(郵船とは関係ありません)

政府が購入した13隻の船と、政府の信用を得た三菱は大きく力を付け、1975年には政府命令で日本初の外国定期航路となる横浜〜上海航路も開設。海外の船会社や日本国郵便蒸気船会社(1875年解散)との競争にも勝ち、社名を 郵便汽船三菱会社に改めました。

★参考:三菱と軍艦島★

1894年、日清戦争が勃発。翌年に締結された下関条約を良しとしないロシア・ドイツ・フランス。これが1904年の日露戦争につながり、ロシア対策のため締結された1902年の日英同盟により、日本は第一次世界大戦へ参戦することとなり…やがて太平洋戦争へと繋がります。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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