国境を越え琉球王国へ!奄美大島と名瀬港の歴史をご紹介|2022 トカラレントゲン便旅行記7

旅の思い出

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今回は「2022年 トカラ列島 レントゲン便旅行記」その7をお届けします。

★前回の記事★

トカラ列島から国境を越えて琉球王国へ

2022年5月18日、鹿児島県十島村の村営船・フェリーとしま2のレントゲン便を利用して、トカラ列島の島々に上陸する今回の旅。

最後に寄港する島・宝島を出港し、最終寄港地の奄美大島・名瀬港までは約3時間の船旅です。

小宝島や宝島では、すでに沖縄っぽい雰囲気を感じられましたが、ここはまだ鹿児島県。

しかし、かつては奄美大島までが沖縄(琉球王国)だった時代がありました。すなわち、宝島と奄美大島の間に国境があったのです。

奄美大島も琉球王国の一部になった

奄美大島と、奄美大島周辺~沖縄本島の間にある加計呂麻島・請島・与路島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島を合わせた8つの有人島を「奄美群島」と呼びます。これらの島々の歴史は古く、縄文時代の遺跡が発掘されている島もあります。

奄美市のホームページによると、日本の歴史書に「奄美」の名が登場するのは600年代後半から700年代。当時は大和朝廷に産物を献上していただけでなく、遣唐使も奄美大島から東シナ海を横断し、中国大陸へ渡っていたそうです。

奄美大島が見えてきた

鹿児島県教育委員会の資料でも、大和政権が鹿児島県域の島々を認識していたことは分かっていたと紹介されています。この時代から、奄美大島は日本の一部であったと言えるでしょう。

長い船旅ももうすぐ終わり

一方、奄美群島のひとつ・沖永良部島が島外から政治的影響を受け始めたのは1300年代以降でした。それまでは各集落の有力者(=豪族)が集落をまとめていたそうですが、1300年代に沖縄が三山時代を迎えると、沖永良部島は沖縄本島北部に拠点を置く北山の勢力下に入りました。

★参考:沖縄のグスク時代について★

接岸!

1429年に琉球王国が成立。奄美大島は1440年前後、喜界島は1464年、徳之島以南はそれ以前に琉球王朝の支配下となっていました。これにより、トカラ列島・宝島が実質的に日本最南端かつ日本最西端となったのです。

★参考:琉球王国の成立★

奄美群島が薩摩藩、そして鹿児島県へ

鹿児島を出港してから41時間、フェリーとしま2のレントゲン便はついに、奄美大島・名瀬港に到着しました。

奄美市役所

奄美大島には5つの市町村があり、その中で最も人口が多いのは名瀬港がある奄美市。2016年に名瀬市、住用村、笠利町の合併により誕生しました。

こちらは1940年(戦前)の国勢調査。名瀬町・住用村・笠利町の人口を合計すると約3万6千人なので、2020年の奄美市の人口(4万1千人)とそれほど変わりません。奄美大島は昔から、名瀬を中心に発展してきたことが伺えます。

名瀬港周辺の様子

その背景には、三方を陸地に囲まれた名瀬港という天然の良港があったことは言うまでもありません。しかし、いつから交易の拠点として機能したのかについては、調べても全く出てきませんでした。

名瀬港にて 臥蛇Ⅱの由来はトカラの臥蛇島?

琉球王国は中継貿易で栄えたため、恐らくその頃から名瀬港の開発は進み、入港する船に対応するためのサービスが興り、仕事を求めて人々が島に住む人が増えたと考えられます。

交易による中国からの影響は、奄美大島や琉球王国に属する他の島々にも及んだそうです。

名瀬港周辺の様子

1609年、薩摩藩の初代藩主となった島津家久が琉球王国に侵攻。奄美群島は薩摩藩に割譲され、現在の沖縄県にあたる範囲の琉球王国を支配下に置きました。

★参考:薩摩藩と中国の両方に属した琉球王国★

自動販売機のラインナップは沖縄と同じ

なお、公的には奄美群島も引き続き琉球王国の一部とされ、島民も伝統的な社会構造を維持していましたが、政治的・行政的な権限を握るのは琉球王府ではなく、薩摩藩という体制だったそうです。

ステーキハウスもある

琉球処分により沖縄県が設置されてから3カ月後、1879年6月30日に奄美諸島は大島郡として鹿児島県に編入され、正式に日本の一部となりました。

★参考:琉球王国と台湾出兵★

道端でバナナも売っている

これに伴い、日本最南端・日本最西端は宝島から波照間島(最南端)と与那国島(最西端)へと移りました。ちなみに、台湾や南洋の島々が日本の領土となるのは、これよりもさらに後のことです。

名瀬港と船の歴史

トカラ列島の旅はここで終わり。奄美大島から船で沖縄へ帰ります。

沖縄行きの船が名瀬港を出港するのは5時50分。早朝に宿を出る必要がありますが、船に乗ってさえしまえば、寝る時間はたくさんあります。

名瀬港に到着。すでにフェリーあけぼのは入港しており、忙しそうに荷役作業が行われていました。

こちらは港の待合室にあった「名瀬港の歴史」。年表の始まりは1951年、関西汽船・黒潮丸となっています。関西汽船は大阪商船株式会社が内航部を分離して、1942年に設立した会社です。

現在の十島村村営船 フェリーとしま2

黒潮丸は当時、日本本土(神戸)と沖縄を結ぶ唯一の航路でした。次に就航した船が十島村営船のやしま丸。定員12名の木造船です。その次に就航したのが、与論と鹿児島を結ぶ照国海運の第一照國丸でした。

★参考:照国海運とは★

ちなみに、第一照國丸の次に就航した関西汽船・那智丸の代船として建造された「浮島丸」という船は、1973年に小笠原海運によって買収され、「父島丸」として小笠原航路に投入されました。

★参考:小笠原航路について★

1951年から続いた沖縄・名瀬・阪神航路は1997年に終了。関西汽船は会社形態を変化させながら、現在の株式会社フェリーさんふらわあに至ります。

待合室にあったこちらの航路図には、神戸・大阪航路が書かれているので、25年以上から掲載されているるかなりレトロなものと思われます。

大阪・神戸だけでなく、東京・志布志(鹿児島)・宮崎の航路が書かれた地図もありました。

早朝から営業している「新港喫茶 シャーク」は、ノスタルジックな雰囲気が漂い、東京や大阪へ船で行くことの出来る時代からここで営業しているのでしょう。

メニューはこんな感じ。

現在名瀬港から出ているのは沖縄~鹿児島航路、喜界島航路、十島航路の3つ。これらに加えて、年数回クルーズ船の入港もあります。

ということで、沖縄・那覇行きの乗船。この日は沖縄まで移動せず、途中の徳之島に寄り道します。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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