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今回は「2022年 佐久島旅行記」前編をお届けします。
江戸時代から観光客が訪れていた?
日本交通公社のホームページでは、「庶民の旅のはじまりは、江戸時代の伊勢参宮(お伊勢参り)にみることができます」と紹介されています。
戦乱の世が終わるとともに、1635年からは参勤交代が制度化されたことで、街道や宿場町が整備され、貨幣の流通も進み、安全かつ便利に旅が出来るようになったようです。ただ、当時の庶民は自由な旅行は認められず、参詣・参宮のための信仰上の理由での旅行のみが許されていました。その結果、大流行したのが【お伊勢参り】です。
■ 参考:1
伊勢神宮への参拝を世話する「御師」が、全国から参拝客を呼び集めたこともあり、1830年には5ヶ月足らずで427万人の参宮者がいたとされています。ただ、どうやら多くの人々にとって信仰は二の次で、道中の観光を楽しみにしていたようです。「伊勢参宮大神宮へもちょっと寄り」という川柳が詠まれたり、観光をテーマにした出版物が刊行されたりもしました。
■ 参考:2
伊勢神宮へのアクセス手段は基本的に徒歩。ただ、日本橋から数えて東海道34番目の宿場町「吉田(現在の豊橋)」からは、伊勢神宮行きの船(参宮船)が出ていました。陸路を歩けば吉田から伊勢まで約5日かかるところを、参宮船に乗れば半日しかかからず、尚且つ船賃も安かったそうです。この航路は当時の観光ガイドブックにも掲載され、多くの旅行者に利用されたと言われています。
■ 参考:3
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三河湾を行く参宮船の航路上にあるのが佐久島です。伊勢神宮を目指す旅行者の中にも、佐久島を訪れた人はいたのでしょうか。現在は「アートの島」として観光に力を入れていますが、江戸時代は海運で繁栄していたようです。
愛知県の離島・佐久島上陸
2022年7月30日、夕方の東京駅にやって来ました。東京駅16時18分発の東海道線に乗車し、佐久島を目指します。
なお、この日は島へ上陸せずに移動のみ。江戸時代のお伊勢参りは片道15日程度かかったようですが、現在は夕方に東京を出発しても、ローカル線だけで三河国の領域に到達することが出来ます。
■ 参考:5
こちらは東海道線の車窓から見えた富士山。江戸時代の江戸では富士山信仰も広まっていたため、お伊勢参りに向かう人々も、きっと東海道から見える富士山の景色を楽しんだことでしょう。
■ 参考:富士山観光の歴史
浜松でも列車を乗り換えて、22時半過ぎに安城駅(三河国)に到着。東海道線の旅はここまで。
安城駅からは1.2km歩いて名鉄電車の南安城駅へ。翌日の朝一番の船に乗るため、この日はもう少し移動します。
そして23時半頃、西尾駅に到着。江戸時代の参宮船は鉄道の発展などともに衰退。現在、吉田湊(豊橋)を発着する定期船は無く、佐久島行きの船は西尾市の一色港から出ています。
駅前にあるネットカフェで一夜を明かし、翌朝は4時半前に出発。一色港まで約9kmを歩きます。
西尾駅と一色港を結ぶ路線バスもありますが、朝一番の船が6時半であるのに対し、朝一番のバスが港に到着するのは9時07分(2025年1月現在)。島での滞在時間を少しでも長く確保するため、早朝から歩くことにしたのです。
GoogleMapの指示に従って田んぼ道や…
住宅街や…
川沿いを歩き…
6時半前に一色港に到着することが出来ました。
こちらの券売機で往復の乗船券をゲット。料金は往復1,660円です。
「佐久島 三つの島巡り」と書かれたポスターが掲示されていました。これは【三河・佐久島アートプラン21】という、島の持つ自然や伝統とアートとの出会いによって、佐久島の地域活性化を目指すプロジェクトの一環によるもの。無料のスタンプラリーを通じて、島を多面的に楽めるようにするための取り組みでしょう。
無事6時半の船に乗ることが出来ました。佐久島までは約20分の船旅です。
船から見た三河湾の景色。景色が流れるスピードは違いますが、かつて船で伊勢神宮へ渡った旅行者も似たような景色を眺めていたことでしょう。
島の歴史と人口減少と高齢化を考える
佐久島には「西港」と「東港」という、定期船の寄港する港が2つあります。
私は東港で下船し、佐久島に上陸!
港には「佐久島のアサリは養殖をしてありますので絶対に採らないで下さい」というお願いの看板がありました。
佐久島のアサリはウチムラサキ(大アサリ)という、普通のアサリとは異なる種類で、その美味しさはどうやら江戸時代から評判だったようです。
国勢調査の産業分類別就業者数を見ると、佐久島の主要産業は漁業であることが分かります。それよりも気になるのは、日間賀島・篠島に比べて、佐久島の就業者数の総数が10分の1程度であることです。
江戸時代に港が整備された佐久島は、三河湾三島で最も豊かな島だったそうですが、現在は3島の中で最も人口が少なく、その数は2020年の国勢調査で196名。高齢化率は50%を超えています。少し調べてみると、この背景には大きく2つの理由がありそうです。
世界最長海上漂流の船頭・重吉
佐久島出身の有名人に、江戸時代の船頭・小栗重吉がいます。
重吉は1813年10月、遠州灘で嵐に遭い太平洋を漂流。1815年3月、米カリフォルニア沖で英国の商船によって救助された後、アラスカなどを経て、1817年に帰還したそうです。漂流日数は484日間に及び、「世界最長海上漂流」として、ギネス世界記録にも登録されています。
■ 参考:6
佐久島の百姓家に生まれた重吉ですが、船頭として名を馳せたのは尾張国半田村(現愛知県半田市)の百姓・庄兵衛の養子になってからのことです。一方で、佐久島では養子を受け入れることも多かったようで、その子たちも重吉と同様、大きくなると船乗りとなりました。
■ 参考:7
佐久島は昔から人材の流動性が高いことに加えて、「船乗り」という仕事に代表されるように、島の外で働くことが一般化しており、生涯を島で過ごすタイプの人が少なかったのかもしれません。
アートによる島おこしと観光の効果
もうひとつの要素が観光です。
日間賀島と篠島が高度経済成長期に観光開発を受け入れたのに対し、佐久島は観光に消極的だったようです。バブル経済期に持ち上がったヨットハーバー建設やゴルフ場開発の計画も、バブル経済の崩壊により実現していません。
■ 参考:8
1950年代に1600人超となった人口が400人を下回ったのは1995年のこと。人口が少ない一方で、島の面積は日間賀島や篠島よりも大きいため、自然が多く残されていました。そんな島の自然や景観などが貴重な地域資源であると提唱したのが、国土庁(当時)の委託の離島振興調査委員会「よい風が吹く島が好き女性委員会」です。
ここから「島の産業、地域文化、自然環境、景観などを活用して、アートフェスティバルや文化フォーラなど芸術活動を行い、芸術性豊かな美しい島を形成する」という【弁天海港構想】が立ち上がり、1996 年に島民有志らで構成される「島を美しくつくる会」が設立されました。
■ 参考:9
アートによる島おこしがスタートしてから20年以上が経過し、佐久島を訪れる観光客数は年間約10万人で推移しています。日間賀島や篠島の観光客数は減少傾向であるため、佐久島の観光客数が2島を上回るのは時間の問題かもしれません。
■ 参考:2022年 日間賀島&篠島旅行記
一方で、佐久島には宿泊施設が7軒しかないため、訪れる観光客のほとんどは日帰りであると考えられます。アートによる島おこしが始まってからも、島の人口は減り、高齢化率も上昇していることから、少子高齢や過疎化の解決になっているのかは不明です。
私も朝一番の船で島に到着し、10時半前には島を出る日帰りの旅。歩いて島を巡りましたが、約3時間半の滞在で十分見て回ることが出来たので、その様子は後編でご紹介します。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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