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今回は「2024年 年末 青春18きっぷの旅」その5をお届けします。
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今治が日本最大の海事都市になった理由
2024年12月29日、芸予諸島の来島と小島を観光し、定期船の起点・波止浜港(今治市)に戻って来ました。

対岸には巨大な船が停泊しています。こちらは今治造船株式会社の本社工場。1901年に創業した会社で、新造船建造量は20年以上連続で国内トップをキープし、世界でも第6位となっているそうです(2024年)。
■参考:1

日本は世界的に見ても造船が盛んな国。その中でも今治市は海運業・造船業・舶用工業が集積する「日本最大の海事都市」として紹介されることが多い地域です。

市内で稼働している造船事業所の数は14。今治に本社・拠点を置く造船会社グループ全体では、日本全体の3割を超える船舶を建造しており、内航船腹量や外航船の保有隻数でも日本一を誇ります(2019年実績)。
■参考:2
瀬戸内海の地理的優位性と村上海賊
今治で造船が発展した背景のひとつは地理的な優位性です。

日本では古くから、都のあった近畿と山陽・九州を結ぶ地域で経済・人的交流が盛んに行われていました。その中間に位置する瀬戸内海地域は、海上交通の要衝として発展してきた歴史があります。多くの島々が点在する地形は船舶を欠かせない交通手段とし、愛媛県沿岸に多いリアス式海岸の深い入り江は、大型船が立ち寄りやすい「天然の良港」として海運業の成長を後押したそうです。

海上交通が盛んである一方、瀬戸内海は激しい海流のため航行が難しい海域でもありました。こうした環境の中で、村上海賊は行き交う船から通航料を取り、安全を保障するための水先案内や警護を担っていました。その過程で培われた高度な運航技術や進取の気質は、現在の海事産業にも受け継がれているといわれます。
■参考:村上水軍(海賊)とは
波止浜における製塩業の歴史
平安時代、瀬戸内の島々では塩の生産が盛んに行われ、島々で生産された塩を各地へ運ぶため、海運が発達したそうです。ちなみに、かの有名な「伯方の塩」は大三島で製塩されており、今治の産物となっています。

江戸時代、財政難に苦しんでいた松山藩を大きく支えたのが、波止浜・波方地区の塩田でした。ここで生産された塩は、安価で品質が良いと各地で高い評判を得て、塩を買い付ける千石船(塩買船)が続々と入港しました。港は大いに賑わい、やがて「伊予の小長崎」と呼ばれるほどの繁栄を見せる港町となったそうです。

波止浜の塩田は、波方町出身の長谷部九兵衛氏が1683年に愛媛県内で最初の入浜式塩田を開発したことから始まります。1959年に廃止されるまで、実に270年以上にわたり操業が続きました。入浜式塩田とは、潮の干満を利用して海水を自動的に塩浜へ導く製塩方式で、かつて【干満差の大きい内海や干潟が発達した地域=瀬戸内海沿岸】に多く見られたものです。

波止浜で製塩業が発展した主な理由として次の3点が紹介されています。
- 瀬戸内海沿岸が、全国的にも晴天日数が多く、雨が少ない地域であること
- 波止浜湾が遠浅で、干潮と満潮の海水面の差が大きく塩田開発に適した地域であったこと
- 日本で最初の入浜式塩田が築造され、製塩業が発達していた竹原塩田(広島県)が近隣にあったこと
波止浜の塩田を開発した長谷部氏は、自ら竹原に移り住んで、最新の製塩技術を学んだそうです。
製塩業から造船業への転換
戦後は生産技術の改良や法的整備が進み、日本の製塩技術は飛躍的に向上しました。

その結果、塩の過剰生産が問題となり、1959年から1960年にかけて塩業整備臨時措置法に基づく第3次塩業整備が実施されます。瀬戸内海有数の生産地であった波止浜でも製塩業が廃止され、波止浜塩業組合は解散しました。
■参考:3

そして現在は、塩業に代わって、湾岸に立地する造船業が波止浜地区最大の産業となっています。波止浜は、塩の生産地としてだけでなく、塩をはじめとした物資の移出港として栄え、さらに来島海峡を航行する船の潮待ち・風待ち港としても重要な役割を果たしてきました。
■参考:4

潮待ちや風待ちで波止浜に入港した船は、その滞在中に修理を行ったことから、船舶修繕を中心に今治市の造船業が発展したそうです。また、来島海峡は瀬戸内海でも有数の漁場であり、漁業が発達したことに加えて、地域に蓄積された高い操船技術が海運業の発展を後押しし、やがて近代的な造船業の成立につながりました。
■参考:5

明治初期にはすでに木造船の修理工場が存在していましたが、この地区の造船業のはじまりとされるのは、1902年に設立された波止浜船渠です。同工場は1924年には鋼船の生産に乗り出し、近代造船へと歩みを進めました。
■参考:6

現在、湾岸には9社の造船工場が並んでいますが、これらの多くは第二次世界大戦中から戦後にかけて設立された木造船の工場が、1960年以降の造船ブームの中で鋼船の生産へ転換したものです。
■参考:7
こちらは小島から波止浜港へ向かう定期船・くるしまから撮影した動画。小さな船で巨大な船の間を抜けて進む迫力は格別で、この光景を眺めるだけでも訪れる価値があると感じられます。

それにしても異様な光景です。これだけ巨大な船を陸から間近に見られる場所は、日本では他に無いと思います。

周辺に造船・海運業者が集中している今治では、事業者同士が日常的に情報や経験を交換し、地域全体で発展してきた経緯があります。とりわけ船主である海運会社の間では、「あの造船所は費用を抑えてくれた」「この金融機関はサービスが手厚い」といった実務的なやりとりが頻繁に行われてきたそうです。

船価や金融機関の融資額といった経営に不可欠な最新情報を素早く手に入れられる環境こそ、今治に身を置く価値といえるでしょう。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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