始まりは江戸時代!訪日外国人観光客「インバウンド」の歴史|観光アイデアノート vol.29

観光アイデアノート

2024年の訪日外国人観光客は3,687万人と過去最高を記録。2025年も1月~3月の累計で1053万7300人となり、年初から過去最速で1,000万人を突破しました。コロナ後に急速に増加した、いわゆる「インバウンド」ですが、その受入体制の整備が始まったのは江戸時代のこと。きっかけは「開国」でした。

■ 前回の記事:開国の歴史を辿る旅

始まりは江戸時代

タウンゼント・ハリスが米国総領事として伊豆下田に来航したのは、日米和親条約により日本が開国してから2年後、安政3年(1856年)7月21日のことです。

インバウンド観光客が多く訪れる東京・築地

ハリスは下田奉行・井上信濃守との間に「下田協約9ヶ条」を締結。この中で「領事の日本国内旅行権」が認められることとなります。鎖国中に長崎で交易をしていたオランダ人も、基本的には出島から出ることが出来ませんでした。そのため、外国人の日本旅行が公的に認められたのは、これが最初だったと考えられます。

■ 参考:1

■ 参考:2

築地

1858年に日米修好通商条約締結が締結され、翌年には横浜・函館・神戸・長崎・新潟の5港が開港。しかし、交易のために来日する外国人の行動範囲は港周辺と、港のそばに設けられた居留地に限られました。

築地

その後、少しずつ外国人が日本を観光・旅行することを認める制度が開始されましたが、政策の多くは、日本国内における外国人の行動を制限するものだったようです。

  • 安政五カ国条約の「外人遊歩規定」により、外国人の行動範囲を居留地から10里以内に制限
  • 医療もしくは学術目的に限って認めた「NUMBERED ROUTES」と呼ばれる20のルートが設定された(1874年~)
築地

江戸末期から明治初期には、外国人に対する一部の日本人の反感(攻撃的な排他性)もあったとされています。当時の日本は、憲法が施行されていない状況下であるとともに、通商条約で領事裁判権が存在していたため、政府が日本人と外国人の無用な衝突を避けたかったのかもしれません。

築地

諸外国からの強い要望もあり、1899年に「内地雑居制」が施行されると、外国人にも日本旅行の自由が認められることとなります。

訪日外国人観光客「インバウンド」の歴史

幕末~明治時代以降における日本の国際観光政策については、以下2つの論文を参考とさせていただきました。

戦前における日本の国際観光政策に関する基礎的分析(野瀬・古屋・太田)より引用

明治時代になると、日本を訪れる外国人は年々増加。その一方で、政府による組織的な国際観光への取り組みは行われておらず、訪日外国人の滞在や移動に直接関わる業者(ホテル・人力車・ガイドなど)による個々の対応が局地的に行われていました。

  • 1868年:江戸幕府が外国人向けに「築地ホテル館」を開業(4年後に火事で焼失)
  • 1879年:欧米諸国から帰国した岩倉具視がホテル建設の必要性を説く
  • 1879年:外国人向けガイド組合結成がされる
  • 1881年:ガイド業として「東京名所案内社」が開業
  • 1889年:東京一大阪を結ぶ東海道線が全線開通
  • 1890年:外国人を主な顧客とする「帝国ホテル」が官民の出資により開業
  • 1891年:ガイド業として「開透社」が開業

喜賓会の設立

日本で初めての公的な観光機関となった組織「喜賓会(Welcome Society)」が設立されたのは1893年のこと。外国人観光客(インバウンド)を誘致して国際親善を増進すること目的とし、背景にはパリの観光事情に触発された渋澤栄一と益田孝の尽力がありました。

明治初期から第二次世界大戦に至る日本の観光政策(佐藤)より

こちらが喜賓会の設立趣旨とされる内容。また、望ましいとされる外国人観光客への対応を、以下ように列挙しています。

  • ① 旅館の営業者に設備の改善方法を勧告する。
  • ② 善良なる案内者を監督奨励する。
  • ③ 景勝地,旧跡,公共的な建造物,学校,製造工場の見物の便宜を図る。
  • ④ 来訪者を歓迎し、国内の適当な相手を紹介し交友を助ける。
  • ⑤ 案内書・案内地図を刊行する。
長崎駅

さらに喜賓会は、外国人向けに旅行のモデルコースを選定。そのコースは、横浜・神戸・長崎という当時の国際港を結び、鉄道路線(東北・東海道・山陽線等)に沿って仙台一長崎間を観光するというもので、特に京都で長い滞在日数が取られていたそうです。また私鉄でも、観光地へ外国人観光客を誘致するための取り組みが行われるようになります。

鉄道創業の地記念碑(桜木町駅)

ただ、喜賓会の運営資金は会員の会費と寄付でした。1906年の鉄道国有化法により、それまで会員として会費を出してきた私鉄が次々と国鉄に買収されたことに加えて、日露戦争後の経済界の不況もあり、喜賓会の財政は窮地に陥ります。

飛行機から見た夕焼け

1912年、喜賓会の理念を受け継ぐ形でジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在の日本交通公社とJTB)が発足。ビューローには、鉄道院(1908年に明治政府が直轄する組織として発足)と民間(ホテルや汽船会社等)が半々の出資を行いました。

ジャパン・ツーリスト・ビューローの発足

ビューローは、海外向けに積極的な広報・宣伝を開始。

浅草

日本の風景や文化を紹介する印刷物(パンフレット)は、英語・フランス語・ロシア語・中国語で作成され、当時、世界各国に航路を展開していた海運会社に業務を委託して配布されました。また、国内の国際観光ルート上にある主要駅や、海外30か所にも海運会社を通じて外国人向けの案内所を設置します。

浅草

こうした広報・宣伝は莫大な費用がかかる一方で、収益を得ることは出来ません。喜賓会と同様に、ビューローの収入も当初はほとんどが会費で、うち半分は鉄道院の特別会計から出資されており、経営基盤は脆弱でした。

浅草

そこでビューローは、1915年に乗車船券類代売事業として、外国人用乗車券の販売を開始します。それ以降、内外の船会社、海外旅行社との代売契約が続き、1915年には旅行小切手の販売を開始。1927年には、こうした手数料収入が会費を上回りました。現在に至る旅行業の基礎が築かれたのは、この時期と言えるでしょう。

日本政府の国際観光政策

1907年、帝国議会で「ホテル開設に関する建議案」が提出されたことを皮切りに、日本政府の国際観光政策が本格的に始動。

浅草

悪質ガイドに対応するため、外国人案内業者取締規則の施行(1907年)や、鉄道院を中心とした観光ルートの設定及びルート上の観光地の整備(1912年)が行われるようになります。1916年には、経済調査会が『外貨獲得を目的とする国際観光振興策』を決議し、以下の内容を政府に提言しました。なお、これらの提言は実行までには至っていません

明治初期から第二次世界大戦に至る日本の観光政策(佐藤)より
浅草

1920年代後半になると、景気の悪化や輸出の減少、関東大震災後の復興事業による資材の輸入超過が重なり、国際収支の悪化が問題視されます。その解決の糸口とされたのが、外国人観光客の誘致です。

■ 参考:3

浅草

1929年、田中義一内閣によって設置された経済審議会が、国際収支改善の重要な方策として外客誘致問題を取り上げると、政府は初めて国際観光を政策問題として取り組むこととなります。

官民が一体となった国際観光政策

1929年、鉄道省とビューローの提唱により「対米共同広告委員会」が設立されました。

浅草

ビューロー内に本部が置かれ、実行委員会はニューヨークに設置。南満州鉄道や日本郵船、ホテル協会などが参画し、海外における外国人観光客誘致の宣伝活動を担います。ただしこの委員会は、政府からの正式な予算措置が得られるまでの暫定的かる非公式な組織でした。

浅草

翌1930年には、国際観光政策の推進機関として「鉄道省外局国際観光局」が新設され、同年、その諮問機関として「国際観光委員会」も発足。政府高官や学識経験者など約60名が委員として参加し、鉄道大臣の監督のもとで、外国人誘致に関する調査・審議を行う体制が整えられました。

浅草

国際観光局設立の背景には、第1次世界大戦(1914〜1918年)後、国力を消耗したヨーロッパ諸国が観光産業に着目し、復興手段として国際観光を本格的に取り組み始めたという世界的な動きがあります。日本もこの潮流に歩調を合わせ、国際観光政策の整備を進めたのです。

明治初期から第二次世界大戦に至る日本の観光政策(佐藤)より

国際観光委員会が審議決定した海外宣伝の概略がこちら。こうした体制整備により、外客誘致に関する行政は鉄道省が一元的に担うこととなり、国際観光政策の位置づけはより明確で安定したものとなりました。

浅草寺のおみくじには英訳も書かれている

恒常的な課題となっていた外国人向け宿泊施設の不足に対応するため、国際観光局は1931年から長期低金利の資金の融資を開始。これにより、1936年までに相次いで都市ホテルや主要観光地のリゾートホテルが建設され、観光産業の振興に大きな役割を果たすこととなります。

浅草寺のおみくじには英訳も書かれている

また、国際観光局は国内向けの啓蒙事業にも力を入れました。観光・旅行関係業者に対しては、ヨーロッパの観光学を日本に紹介するために。ドイツやイタリアなどの著書をいち早く翻訳して出版。国民に対しては、観光祭や観光報国週間を開催したそうです。

浅草にて

1931年には、国際観光委員会の提言を受けて、海外宣伝の実務を担う機関として「財団法人国際観光協会」が発足。設立に際しては、鉄道省が25万円、民間が5万円を出資しました。国際観光協会の設置とともに、ビューローは内外客斡旋機関(日本名:日本旅行協会)となりました。

浅草にて

政府は国際社会の観光行政の分野への活動にも積極的に参加。観光に関連する連盟や同盟、会議に加わり、海外の観光事業に関する情報の入手や、観光分野の国際社会との連携に動いていたようです。

小笠原も築地や浅草と同じ東京都

国際観光振興を直接の目的とするもの以外の主要な施策として、1931年に「国立公園法」が制定・公布。国立公園を保護・利用するという公園制度が誕生し、1934年に8ヶ所が国立公園として指定されました。

■ 参考:日本の国立公園観光について

戦争と外国人観光客

1937年に日中戦争が勃発すると、日本の観光政策と観光事業の性格は大きく変容しました。

おがさわら丸の船尾に掲げられた日本国旗

それまで米国人の訪日誘致を主な目的としていた国際観光は、戦時色の強まりとともに、国際親善や対米・対アジア諸国政策の一環としての「国情・文化の宣揚」へと目的がシフトしていきます。観光は単なる娯楽ではなく、日本の新秩序建設を海外に伝えるための宣伝手段とみなされるようになりました。

激戦の地・硫黄島の摺鉢山

その一方で、戦時下における海外宣伝や観光活動に対して、次第に批判的な世論も高まります。訪日外客数は年々減少し、1941年の太平洋戦争開戦を機に観光事業はさらに厳しい局面を迎えました。

小笠原村観光協会

1942年には「国際観光局」が廃止され、各地の観光協会も文化協会や郷土課へと再編されます。ビューローも1941年には「東亜旅行社」と改称され、日本・満州・中国を結ぶ旅行の斡旋機関へと役割を転換しますが、やがて本来の観光業務は全面的に中止されました。

沖縄・那覇にて

戦争が激化するにつれて、空襲などにより輸送機関や宿泊施設、観光資源は壊滅的な被害を受け、観光産業は事実上崩壊します。

戦後における外国人観光客受け入れ

沖縄・国際通りにて

戦後、GHQによる占領統治下では、民間の外国人の入国は禁止され、国際観光ホテルは進駐軍に接収。日本交通公社(現在のJTB)の業務も進駐軍や引き揚げ者の輸送・宿泊手配に限定されるようになります。政府は外貨獲得を目的として観光復活を模索しますが、実現には時間を要しました。

空から見た東京都心

1947年からようやく民間の訪日外国人の入国が再開され、訪日客数も徐々に増加していきます。しかし、旅行先は占領政策により制限されており、東京・大阪・神戸・京都・奈良・横浜・鎌倉・熱海など、主に寄港地周辺の都市に限られていました。

東海道線・吉原駅にて

転機となったのは1949年。政府が運輸省内に「観光部」を新設し、国際観光復興に本腰を入れ始めます

おがさわら丸にて

外国人旅行者への対応強化を目的に「通訳案内業法(現在の通訳案内士法)」が制定され、観光ガイドの制度化が進みました。また、外国人宿泊客向けの施設整備を進めるため「国際観光ホテル整備法」が成立。国が洋式の構造・設備を備えた宿泊施設を「登録ホテル」として認定する制度が始まりました。

福岡空港にて

さらに、将来的な国際航空路の展開を視野に入れた、半官半民による日本航空の創設準備もこの時期に進行。同時に、有名観光地での復興と国際観光振興を目的とした「特別都市建設法」なども制定され、戦後日本の国際観光再建に向けた政策が本格的に動き出したのです。

■ 参考:4

国際観光は政府が主導するもの?

歴史を遡ると、インバウンド観光は国や行政が主導する形で進められ、宣伝と観光地の整備が一体的に行われてきたことが分かりました。

福岡県の離島にて 家の窓を開けたら観光客がいる状態

近年はSNSの普及によって、個人による情報発信が先行し、観光地整備が追いつかないケースが増えています。その結果、受け入れ体制が不十分なまま観光客が急増し、各地で問題となっているのがオーバーツーリズムです。

韓国にあった旗

このような現状を踏まえると、今後、国や行政の関与を前提としない観光のあり方は可能なのかという問いが浮かび上がります。観光がより持続可能な形で発展していくためには、従来の公的主導に依存しない、新たな仕組みやバランスの模索が求められているのかもしれません。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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