伊能忠敬が日本地図を作成した理由~伊能忠敬記念館(千葉県佐原)を見学|2025 旅行記

千葉県

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今回は「2025年 千葉県佐原 旅行記」その1をお届けします。

千葉県佐原で伊能忠敬を知る

2025年3月20日の11時半、JR成田線の佐原駅(千葉県香取市)にやって来ました。

駅のホームには「水郷 佐原」と書かれた案内板がありました。キッズネットによると、「水郷」とは、大きな川の下流や、湖沼などにそった広い低湿地のこと。江戸時代以降、利根川の水運拠点として栄えた佐原一帯は、利根川対岸の茨城県潮来市と並んで、日本を代表する水郷地帯として知られています。

街中には江戸期から明治期に建てられた商家や民家が今も立ち並ぶことから、「北総の小江戸」とも呼ばれる佐原。2011年に改築されたという駅舎も、趣のある造りとなっています。

そして、駅前に立っているのは伊能忠敬の銅像です。伊能忠敬といえば、江戸時代に日本中を測量してまわり、初めて実測による日本地図を完成させた人物で、17歳から49歳までの約30年を佐原で過ごしました。

ということで、まずは駅から歩いて15分ほどの場所にある伊能忠敬記念館へ。そのまま夕方まで、佐原を歩いて観光します。

伊能忠敬記念館を見学

こちらは途中にあった伊能忠敬像と『一等水準点 交3981号』。石碑に書かれている内容は以下の通り。

  • 一等水準点は、東京湾平均海面からの高さ(標高)を示すもの。
  • 全国の主要国道等に沿って約2km間隔で設置されている。
  • 水準点の高さは、上下水道をはじめ、洪水対策などの工事や管理の基準になっている。
  • 高さを繰り返し測ることにより、地盤沈下調査、地震予知研究など、国民生活の安心・安全を確保するためにも利用されている。
  • この一等水準点は、明治28年(1895年)に参謀本部陸地測量部が、佐原市内の香取街道沿い設置したものを、平成14年(2002年)に現在の位置に移設したもの。

その横にあるのが『象限儀』。こちらは伊能忠敬が日本全国を測量した時に持ち歩いたという測量機具のひとつ。星の高度を観測するのに利用され、各地で測った記録と江戸で測った観測値から、緯度を算定したそうです。

伊能忠敬記念館に到着しました。入館料は500円。地図や測量道具だけでなく、伊能忠敬に関わるさまざまな資料が展示されており、その中には国宝も含まれています。

第二展示室は撮影OK

館内の大部分は撮影禁止。展示スペースもそれほど広くないため、資料をじっくり読まずに一通り眺めるだけであれば、所要時間は5分ほど。毎週土日には展示解説員による常設展示の解説ツアーも実施されていますが、Googleマップの口コミには「割高に感じた」という声も見られます。

私は約50分かけて館内を見学。そして、こちらは伊能忠敬記念館のそばを流れる小野川。川沿いには、木造建築や蔵造りをはじめ、多様な建築様式の町家や土蔵、洋館が並びます。この一帯は、関東で初めて重要伝統的建造物群保存地区に指定されたそうです。

伊能忠敬と佐原の関係

そんな町並みの中にあるのが伊能忠敬旧宅です。伊能忠敬記念館からは徒歩1~2分の場所にあり、こちらは入場がかかりません。

1745年に現在の千葉県九十九里町で生まれた伊能忠敬。生まれた当時は「伊能」でもなく「忠敬」でもなく、「三治郎」という名前でした。青年期は現在の横芝光町で過ごした後、17歳のとき(1762年)に佐原の豪商・伊能家の婿養子となり、妻ミチと結婚。このタイミングで「伊能忠敬」となりました

伊能家は代々名主を務める家柄で、佐原でも有数の有力商人として知られており、主に酒造業を営んでいたそうです。忠敬は婿養子入りと同時に家督を継ぎ(=あととりになる)、約30年にわたってこの場所で暮らします。家業の酒造業を切り盛りする一方、名主や村方後見として地域運営にも尽力しました。

現在残る伊能忠敬旧宅は、当時に比べると敷地は約6分の1に縮小されているとのこと。それでも、伊能家が営んでいた土蔵造りの店舗をはじめ、炊事場、書院、土蔵などは現存し、佐原の中でも古い時代の建築として貴重であることから、国の史跡にも指定されています。

旧宅の敷地内にて

49歳で家督を譲って隠居した忠敬は、「勘解由」と名乗り、50歳で江戸へ移住。そして55歳の1800年から71歳の1816年まで、10回にわたる全国測量を実施し、日本の近代測量の礎となる『伊能図』を完成させたのです。

また、小野川に面した旧宅の正面には「だし」と呼ばれる、水運が盛んだった頃の荷揚げ場があり、今は観光船の乗り場になっています。

伊能忠敬が日本地図を作成した理由

そもそもなぜ、佐原で事業を営んでいた伊能忠敬は、日本地図の作成に取り組んだのでしょうか。その背景には、江戸時代の学問と科学の発展があります。

小野川

江戸時代は学問や知識への関心が高まり、天文学や暦学の研究が盛んになったそうです。しかし、当時使われていた宣明暦は約800年前に作られたもので、実際の天体の動きとのずれが問題視されるようになります。さらに長崎を通じて西洋や中国の科学知識が伝わり、暦の不正確さが次第に明らかになっていきました。

佐原の中心部にある忠敬橋

佐原の名主であった伊能家には、代々多くの蔵書が伝えられており、忠敬も様々な書物を読む中で天文暦学に関心を抱いたそうです。49歳で家督を譲り隠居した忠敬は、50歳で江戸に出て、天文方(1684年に設けられた暦の作成や天体観測を担う幕府の役職のこと)の中心人物であった高橋至時に弟子入りすることとなります。

小野川沿いの街並み

忠敬と至時の目標は、正確な暦を作ること。そのためには地球の大きさを知る必要があり、南極と北極を結ぶ子午線上で緯度1度分の距離を測れば計算できると考えられていました。この理論を確かめるため、実地での測量が行われたのです。

小野川沿いの街並み

そこで忠敬は、北方から迫るロシアの脅威に備え、幕府が蝦夷地の正確な地図を求めていることに着目。「蝦夷地の地図を作成する」という名目で測量の許可を得ることに成功し、55歳にして測量の旅へと踏み出します。“人間50年”といわれた時代に、全国を歩いて測量するという決断は、極めて異例のものでした。

■参考:北方から迫るロシアの脅威

忠敬率いる測量隊は、計10回にわたって全国各地を測量。第1次から第4次測量までは、その費用の大半は忠敬の自腹であり、純粋な学問的探究心が原動力であったことが分かります。この測量の過程で、間宮林蔵とも出会いました。林蔵は忠敬から測量を学び、後に自身が行った北海道探検の測量成果を忠敬に託しています。

■参考:間宮林蔵と宗谷岬

こうして忠敬は、暦を正確にするという天文学的な目的から出発し、結果として約4万キロに及ぶ測量を成し遂げ、日本地図の完成へと至りました。日本地図は最終的な成果であり、その根底には「学問としての天文学を極めたい」という強い探究心があったのです。

■参考:1

■参考:2

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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