お城も要塞も築かれた!南北2.5km×幅330mの砂州の島・成ケ島の歴史|2022 旅行記3

兵庫県

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今回は「2022年 成ケ島旅行記」その3をお届けします。

★前回の記事は こちら

南北2.5km×幅330mの砂州の島・成ケ島の歴史

2022年10月15日、淡路島の横にある砂州の島・成ケ島に上陸しました。

前回もご紹介した通り、南北に約2.5km、島の幅が15m~330mという細長い砂州の島ですが、かつては人が住んでいた時代もあり、対岸の由良地区とともに長い歴史のある島です。

渡船から見た由良

同エリアでは、真野谷遺跡から縄文時代の有舌尖頭器が出土し、弥生~古墳時代の製塩遺跡である生石遺跡・高崎遺跡も発見されています。また、2016年には淡路島日本遺産の構成文化財のひとつ「紀淡海峡と由良・成ケ島」としても認定されました。

■ 参考:1

成ケ島に築かれたお城・由良城

奈良時代、淡路島は「淡路国」と定められ、紀伊国(和歌山)や四国(阿波・讃岐・伊予・土佐)と同じ「南海道」という行政区に入りました。

都・奈良を出発点として、国と国とを結ぶ道路が全国に整備されると、南海道の国々を結ぶ道路もまた「南海道」と呼ばれたそうです。淡路島を横断する幅10m前後の立派な道路には、約16kmごとに駅家(うまや)が置かれ、駅の管理をする事務所や宿所、旅に必要な馬や船を管理していました。

淡路島に置かれたのは由良駅・大野駅・福良駅の3駅。由良駅は由良4丁目付近にあったと考えられており、古代淡路の交通の玄関口となっていたようです。

現在の由良港

南北朝時代には、紀州熊野に拠点を持っていた安宅氏が、淡路水軍を統治するため由良城を築城。安宅氏はこの城を拠点として、淡路全島や紀淡海峡で勢力を伸ばしました。室町時代の由良は淡路最大の港だったと考えられており、交易の船が頻繁に出入りしていたようです。

■ 参考:2

展望台へ向かう遊歩道

1581年、豊臣秀吉の淡路攻めにより由良城は陥落。その後、1613年に「西国将軍」と称された姫路城主・池田輝政の三男忠雄に淡路一国が与えられると、成山に由良城が築かれ、由良は城下町として整備されました。築城当初は石垣が築かれ、建物もあったようです。展望台へ向かう途中にあった石垣は、こうした時代のものでしょうか。

徳川家康は、対豊臣のため大坂城周辺を一族や譜代大名で囲う豊臣包囲網を構築していました。由良城もその一環で、大阪湾に入る豊臣勢の船を厳しく監視していたそうです。池田氏は2年間にわたって淡路を治め、その後は阿波の蜂須賀氏に代わりました。

成山の木々に止まる鳥たち

蜂須賀氏もしばらくの間は由良を拠点としていましたが、交通の便が悪いなどの理由から、城と城下町を洲本へ移転。「由良引け」と言われるこの政策により、成山の由良城はその役目を終えました。現在は安宅氏の由良城を「由良古城」、池田氏の由良城を「成山城」と呼ぶそうです。

紀淡海峡にロシアの軍艦がやって来る

バスの車窓から見た成ケ島

由良引け以降、淡路の政治と文化の中心的な存在であった由良は、海運や漁業を中心とした町となります。新川口と今川口が開削され、成ケ島が『島』となると、由良港には千石船などの大型船が出入りし賑わったようです。

成ケ島から見た紀淡海峡

江戸時代末期の1854年9月15日、紀淡海峡に突如ロシアの軍艦がやって来ました。ディアナ号と呼ばれたこの船は全長約60m・幅約15m、帆柱は3本、60挺もの大砲を備え、海軍中将プチャーチンをはじめ、約500人もの乗組員が乗船していたそうです。

由良から見た大阪湾

これ以前からロシアは鎖国中の日本に接近し、通商を求めていましたが、幕府は拒否していました。しかし、アメリカのペリーが日本へ来航し、江戸幕府と通商の交渉をしていると知ったロシアは、1853年から1854年にかけて長崎へ2度来航。しかし、長崎では話が進まなかったため、大阪湾へやって来たのでした。

■ 参考:鎖国中の日本に接近したロシア

どうやらロシアは、天皇の住む京都に近い「聖域」に現れた異国人に、日本人は恐れおののき、早々に提案に応じると予測していたようです。実際に幕府はディアナ号を下田へ移動させ日露交渉が行い、1855年の日露和親条約締結へと至ります。

この一件により、幕府から徳島藩に台場築城の命が下り、淡路島の由良・岩屋・洲本地区にも台場が築かれました。各台場には2~4門の大砲が配備されましたが、成ケ島南端の高崎台場には40門もの大砲が配備されたそうです。また高崎台場には、成山城の石垣が再利用されたと考えられています。

由良要塞となり、成ケ島は立ち入り禁止に

明治時代の由良は『軍隊の町』となり、成ケ島も要塞として機密を守るため、一般人の立ち入りが出来なかったそうです。

大阪湾に敵艦の進入を許すことは、京阪神の壊滅を意味します。そのため、紀淡海峡の防衛は特に重要視され、東京湾要塞・下関要塞と並ぶ陸軍の一等要塞として、1889年に由良要塞の築城が始まりました。

成ケ島の砂州

由良要塞の全砲台が完成したのは1906年のこと。しかし、第一次世界大戦後は主戦場が空に移ったため、これらの要塞は第二次世界大戦の終戦まで、実戦で運用されることはなかったそうです。

こちらは成ケ島の展望台にあった砲台跡。ここに据えられた二十八センチ榴弾砲は日露戦争時に戦地へ運ばれ、実戦で活用されたそうです。

戦後は国民宿舎もあった

展望台へ向かう往路は青矢印の道を歩いてきましたが、復路は赤矢印の道を通って帰ります。

しかし、がけ崩れにより立入禁止。

緑矢印の道から帰ることにします。

こちらは廃墟でしょうか。戦後は成ケ島を訪れる人が増加。1958年に洋画家・辻永(つじひさし)氏が「内海初冬(淡路橋立)」という作品を描いたことをきっかけに、1961年に「淡路橋立」の碑が建てられました。

成山周辺

1962年からは国民宿舎「成山荘」の営業がスタート。成ケ島が完全な無人島となったのは成山荘が廃業した1986年以降のことらしいです。

山を下りてきました。こちらは桟橋の近くにある毘沙門天。戦前からあるのか、戦後に建てられたものなのか。詳しいことは分かりません。

ということで、これにて島の観光は終了。淡路島へ戻るため、電話をするとすぐに船が来てくれました。

さらば成ケ島。滞在時間は約2時間でした。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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