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今回は「2024年 年末 青春18きっぷの旅」その9をお届けします。
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高島と軍艦島の違いを考察する
2024年12月30日、長崎市の有人島・高島を歩いて観光しています。

港から歩いてやって来たのは「軍艦島が見える丘」。約3km先に浮かぶ軍艦島の全景を見ることが出来るスポットです。

軍艦島が見える丘周辺を上空から見るとこんな感じ。島の先端部が港のような地形をしていることが分かります。かつて、この場所から軍艦島行きの船が発着していたのでしょうか。

桟橋?防波堤?と思われる遺構も確認できます。なお、高島と軍艦島の間にあるのが「中の島」という無人島です。

鉱山閉山後、軍艦島は無人島となった一方で、高島には今も300人以上が暮らしており、軍艦島が見える丘へ向かう道路では法面工事が行われていました。
知る人ぞ知るブランドトマト
時刻は13時、帰りの船は15時です。ここからは島の西側を歩いて北上し、世界文化遺産・高島炭坑北渓井坑跡を目指します。

道路沿いの草むらに「関係者以外立入禁止(長崎市役所)」という看板が立っている…ということは、普通の草むらではなさそうです。

看板の手前から草むらを覗いてみると、コンクリートの構造物がありました。きっとこれも炭鉱の関連施設だったのでしょう。

高層アパートが並ぶエリアに戻ってきました。この交差点を左折します。

ゴミ捨て場には年末年始のゴミ回収スケジュールが掲示されていました。人が暮らしていなければ日付は古いままのはずですが、記載されているのは最新のもの。そこに、確かな生活感が感じられます。

こちらはたかしま農園。長崎市に本社を置く崎永海運株式会社が運営するトマトの農園です。もともと第三セクターで運営されていたトマト農園を崎永海運が引き継ぎ、現在は知る人ぞ知るブランドトマトとして人気を集めています。

こちらがそのハウス。農園のファンクラブに入ると、その特典としてトマト収穫を体験することもできるようです。

そしてまた海沿いへ。歩道には枯れた草が生い茂り、生活感は感じられなくなりました。
2つの島の歴史的関係

「軍艦島」と呼ばれているこの島の正式名称は「端島」。炭鉱開発以前の端島が無人島であったのに対し、高島は1185年に平家の落武者が住みついたのが始まりといわれています。

その後、1695年に五平太という人物が高島で石炭を発見。1710年頃から事業化し、高島での炭鉱時代の幕が開かれたそうです。1868年にトーマス・グラバー氏が、佐賀藩との合弁により開発を始めたころから、高島炭坑が本格的に稼働を始めました。

端島で石炭が発見されたのは1810年とされています。1887年に第一竪坑が開坑された後、1890年からは高島の支坑として三菱の経営となり、1891年から本格的に石炭の採掘が開始されました。

その後数年で、端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜くまでに成長。元々は岩礁による小さな島であった端島は、1893年以降、40年に渡って計6回の埋め立て・拡張されます。ただし、敷地の大半が鉱場であり居住地がとても狭かったため、高層アパートが建設されたのでした。
■参考:端島(軍艦島)旅行記

端島には明治時代から2000人以上が居住し、1960年頃の人口は5000人を超えたそうです。炭鉱が閉山したのは、高島が1986年、端島が1974年のこと。高島には現在も300人以上が暮らしている一方で、軍艦島は無人島となりました。
軍艦島が無人島になった理由

端島は炭鉱開発のために造られた島。土地の大半を三菱が所有し、住宅はすべて社宅、仕事も生活基盤も企業が一括して支えていました。いわば住民は「島民」というより「従業員」。島そのものが一つの巨大な事業所だったといえるでしょう。

こうした歴史は、沖縄の南大東島にも共通します。南大東島はもともと無人島でしたが、玉置商会が開拓し、さとうきび栽培と製糖業で発展。島の物流・郵便・通信・病院・学校なども企業が運営し、島内通貨も流通させていました。
■参考:南大東島旅行記

玉置商会は戦後に経営破綻。軍艦島よりも本土からはるかに遠い場所に位置しているにも関わらず、南大東島には現在も1000人以上が暮らしています。軍艦島が無人島となった背景にあるのは、閉山後も島は企業の所有下にあり続けたという点です。

南大東島は1964年に村民へ土地の所有権が与えられました。これに対し、端島では1974年の閉山により、雇用が終了したと同時に、住宅・医療・学校・商店といった生活機能も一斉に終了。住民が「この島に住み続けたい」「移住したい」と選ぶ法的・制度的余地が存在しなかったようです。

2001年、端島は三菱から高島町に譲渡され、2005年に高島町が長崎市に編入合併されたため、現在の端島(軍艦島)の所有者は長崎市。そのため、個人が土地を取得することは出来ず、建物を建てる権利も基本的にはなく、許可なく立ち入ること自体が制限されています。

一方、高島は炭鉱以前から人が暮らし、土地の私有や生活の連続性があり、炭鉱はあくまで島の産業のひとつ。閉山後も島に住み続ける主体が消えなかったのです。これは池島にも共通します。
■参考:池島旅行記

ということで、軍艦島が見える丘から歩くこと約40分、世界文化遺産・高島炭坑北渓井坑跡に到着しました…が、この場所が世界遺産?遊具の無い公園にしか見えません。この場所が世界遺産である理由は次回。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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