米の島 寒風沢島を歩く!東廻り航路で繁栄&榎本武揚に米を提供した島|2022 浦戸諸島旅行記2

宮城県

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今回は「2022年 夏 宮城県の島旅」旅行記その2をお届けします。

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米の島 浦戸諸島・寒風沢島を歩く

2022年7月16日11時、朴島から船で寒風沢島(さぶさわじま)に上陸しました。この船の乗客は私だけ。私と一緒にクロネコヤマトの宅配物も上陸です。

寒風沢島での滞在時間は1時間しかありません。島の周囲は13.5km。浦戸諸島で最も大きな島を1周する時間は無いので、まずは港から日和山展望台を目指して歩きます。

朴島と同様、寒風沢島も観光客が利用出来る施設はこちらの待合所だけ。商店やカフェなどはありません。

待合所の中はこんな感じ。Free Wifiも繋がり、すぐ横には公衆便所もあります。

また、港の前にある民宿には自動販売機もありました。

寒風沢島にて

島の人口は82人(2020年国勢調査)。東日本大震災以前に比べて人口が半減した一方で、増えたのは猫。震災で家を失った飼い主が猫を置いて島を離れ、その後も何とか生き抜いた猫たちの子孫が、今も数を増やしているそうです。

■ 参考:1

住民の多くは漁業に従事する一方で、寒風沢島は塩竈市唯一の米の生産地。生産量が少ないため「幻の寒風沢米」と言われ、純米吟醸 浦霞 寒風沢も販売されています。

こちらは寒風沢コミュニティ農園。震災後、この一帯は災害危険地域に指定され、居住出来なくなったため、新たに農園として整備された場所です。農業をする上で欠かせない「水」は欠かせません。浦戸諸島の島々には川が無いため、雨水や雪解け水などを貯めて、農業用水として利用しているそうです。

■ 参考:1

この日は大雨の影響で、大量の水が島から海へと放出されていました。島に水道が引かれたのは1966年のこと。浦戸諸島の水道水は海底6,600mを通る送水管を使って、本土から届けられているそうです。

■ 参考:2

対岸は野々島

一方、電気は海底ではなく、送電線が利用されています。

東廻り航路で繁栄した島の歴史

道の途中に【寒風沢港の歴史】を紹介する案内板がありました。ここからは案内板の内容をもとに、寒風沢島の歴史をご紹介します。島で稲作がいつから行われているのかは不明ですが、どうやら江戸時代から寒風沢島には米があったようです。

寒風沢島の集落

上総国(千葉県)から一族で島に移り住んだ長南和泉守が、寒風沢水道に面した海岸部を埋め立て、港の基礎を作ったとされるのは1616年(江戸時代)のこと。その後、寒風沢港は江戸へ米を輸送する廻船(貨物船)の拠点として整備されることとなります。

寒風沢島の集落

寒風沢港が活用されることになった背景にあるのが、河村瑞賢による「東廻り航路」の開設(1670年)です。当初は、阿武隈川流域で栽培された米を舟運で荒浜港(宮城県亘理町)まで運び、そこから太平洋沿岸を南下して江戸へ向かう航路でしたが、河口で水深の浅い荒浜港は大型船の出入りが難しく、船が座礁する危険もありました。

■ 参考:東回り航路・西廻り航路について

そこで、石巻・野蒜・高城・塩竈・閖上・荒浜といった仙台湾に面する主要な港湾の中間に位置し、水深があって強風の影響を受けにくい寒風沢港が、新たな拠点として選ばれたのでした。また、仙台藩も江戸へ輸送する年貢米を寒風沢港に運ぶようになると、寒風沢島には年貢米を保管する蔵や荷物の積込業務を行う施設、船や貨物を監視統制する藩の役所、廻船問屋、宿屋、遊郭なども出来て繁栄しました。

目指している日和山展望台にも、寒風沢島が繁栄していた時代の遺構が残されているようです。階段を上り、山の中へと入っていきます。

到着しました。こちらが日和山展望台からの景色。かつては、船出の際にここから波を観察したと言われています。

そんな場所に置かれているのが「十二支方角石」という直径45cmの円柱状の石。江戸時代に作られたものですが、ほぼ正確に東西南北を示しているそうです。

現在は展望台の大部分が木々に覆われており、展望はあまり楽しめない

海運の拠点となった寒風沢島からは、日本人で初めて世界を1周した人物も誕生します。1793年11月、津太夫・左太夫・銀三郎・民之助・佐平という寒風沢島出身者が乗った船「若宮丸」は、仙台藩の年貢米と材木を積み石巻港を出港。しかし、若宮丸は福島県いわき市沖で悪天候に遭い漂流し、翌年5月にアリューシャン列島の小島(=ロシア)に漂着しました。

寒風沢島の案内板より

その後、乗組員らは移送されたシベリア・イルクーツクで7年間を過ごした後、1803年にロシア皇帝アレクサンドル1世に呼び出され、首都・ペテルブルグで帰国の意思を問われると、寒風沢島出身者のうち津太夫と佐平は帰国を希望。2人は帰国を希望した他の乗組員らと共に、ロシア初の世界1周就航船・ナジェージダ号に乗り、約1年3か月かけて世界各地に寄港しながら、1804年9月に長崎へ到着しました。

日和山展望台の手前の案内板に「砲台場跡」という、気になるものを発見しました。距離は500mとそれほど遠くないので行ってみることに。

日和山展望台から砲台場跡へ向かう道

雰囲気のある竹藪の中を歩きます。それにしても津太夫と佐平が帰国した当時の日本は鎖国中。ロシアの船が何故長崎に入港出来たのかは不明です。

■ 参考:鎖国中の日本に接近したロシア

戊辰戦争中の榎本武揚にも米が提供された?

幕末に仙台藩が寒風沢島に西洋船の造船所を作り、1857年に東北で初めてとなる西洋型軍艦「開成丸」が建造されたことも、寒風沢島の歴史として紹介されています。港から日和山展望台へ向かう途中には「寒風沢造艦の碑」もありました。

ということで、日和山展望台から砲台場跡に到着しましたが、鳥居が立つのみで、砲台の跡のようなものは見当たりません。

こちらが砲台の跡でしょうか。案内板によると、1867年(江戸時代)、仙台藩は寒風沢港を海防上もっとも重要な地点として、この場所に加農砲三門・弾薬庫・見張所を備えた砲台を築造したそうです。

確かに見晴らしは良いので、砲台を置くのに相応しかったのでしょう。さらに、寒風沢島の南にある無人島・船入島にも鉄の大巨砲二門を置き、海上の警備にあたったそうです。

砲台場跡には「船入島弁財天大神社」「船入島龍神大権現社」がありました。鳥居はきっとこれらに関連するものでしょう。ちなみに、船入島には幕末の武士・榎本武揚の埋蔵金伝説が残されているそうです。

中央やや右の島が船入島?

戊辰戦争中の1868年、江戸から脱出した榎本武揚率いる幕府艦隊が浦戸諸島に入港。北海道・五稜郭へ出港するまでの約1か月半、将兵3000余名が各島に分宿し、寒風沢の米蔵から食料(米?)が提供されたそうです。埋蔵金伝説は、この当時の島民らによって作られた伝説だと考えられます。

寒風沢海水浴場

明治になり、白石廣蔵が桂島・石浜に白石廻送店(白石商会)を設立。汽船による海運業や遠洋漁業、ラッコ漁などを大規模に行うようになると、近代港としての役割は石浜へ移行し、寒風沢港は徐々に衰退しました。

砲台場跡からは神明社を経由し、港へと戻ります。

こちらが寒風沢神明社の鳥居。社殿は建築年代を直接的に証するものがなく、 江戸中期頃から約250年前に建造されたと推定されているようです。

■ 参考:3

港へ戻る途中、寒風沢集落の外れで見つけたのは、パンフレットなどでも紹介されている「六地蔵」。綺麗にされており、現在も信仰が守られている様子が伺えました。

■ 参考:4

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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