富士山の観光と富士急の歴史を辿る旅!電車とバスで河口湖~山中湖~御殿場へ|2022 旅行記9

2021年→2022年 年末年始の旅

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今回は【2021年→2022年 年末年始の旅】その9をお届けします。

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電車で元旦の河口湖へ

2022年1月1日の朝7時、高尾駅(東京都)にやって来ました。

雪が付いた中央本線に乗車。今回の目的地は山梨県の河口湖山中湖です。

大月駅で富士急行線に乗り換え。車内にはトーマスのラッピングが施されていました。これは、富士急行線の沿線にある、富士急ハイランドのトーマスランドにちなんだコラボです。

大月駅を出発すると、列車は少しずつ富士山に近づいていきます。

山梨県側から見る富士山

初夢で見ると縁起が良いとされるのが「一富士、二鷹、三茄子」。江戸時代のことわざで、由来は諸説あるものの、富士は「不死」や「無事」、鷹は「高い」、茄子は「成す」という言葉にかけられていると紹介されることが多いです。2022年は夢で見るよりも先に、リアル富士山を見ることが出来ました。

こちらは富士急ハイランドと富士山。元旦も朝から営業していたようで、ほとんどの乗客が「富士急ハイランド駅」で電車を降りました。

9時、河口湖駅に到着。大月駅の標高が358mであるのに対し、河口湖駅の標高は857m約27kmで500mも登ってきたことになります。それでも河口湖は、富士五湖(河口湖・山中湖・西湖・精進湖・本栖湖)の中で最も標高が低い場所に位置する湖です。

河口湖駅から歩いて約15分、河口湖に到着しました。河口湖は、かつて近くを流れていた桂川が、噴火した富士山の溶岩によって堰き止めらて出来た湖。周囲17.4kmは富士五湖の中で一番の長さです。

ここでは遊覧船天晴に乗船し、湖の上から富士山を眺めます。乗船券(1,000円)と一緒に御船印もゲット!

元旦ということで、無料でおみくじを引くことも出来ました。

富士山の観光と富士急の歴史を辿る

天晴が就航したのは2020年。それ以前の河口湖では「アンソレイユ」という名の遊覧船が20年間運航されていました。

河口湖遊覧船 天晴

遊覧船を運航する富士五湖汽船株式会社の設立は1930年。1955年に富士山麓電気鉄道、現在の富士急行株式会社の系列となりました。富士山周辺の観光開発を語るうえで、富士急行の存在は欠かせません。

古くから信仰の対象となっていた富士山ですが、どうやら室町時代前後には、その形状の美しさが評価され、「富士山を眺める旅」が行われていたそうです。江戸時代になると、江戸で富士山信仰が広まり、富士山へ登拝する『富士講』が流行。幕末以降は、在日外交官らも富士登山を体験するようになりました。

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待合室にあった記念メダル

富士山への登山者が急増したきっかけとなったのは、東海道線の御殿場駅開業(1889年)です。山梨県側でも、富士登山客誘致のため、1890年頃から鉄道敷設計画が地元住民から提起されていたようで、1903年10月に、大月駅から御殿場駅の間が富士馬車鉄道・都留馬車鉄道・御殿場馬車鉄道の3社によって連絡された後、1921年7月に富士馬車鉄道と都留馬車鉄道は合併。これに伴い設立された富士電気軌道会社が、同年10月に大月駅ー富士吉田駅間で軽便鉄道の運転を開始しました。

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富士山の周辺には登山道や宿泊施設も整備され、レジャーとして富士登山が楽しまれるようになりつつある頃、この富士山観光ブームに目を付けたのが、甲府県八代郡黒駒村(笛吹市)の出身の実業家・堀内良平氏です。「富士五湖」という名称を使用し始めたのも、堀内氏と言われています。

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天晴から見た富士山

1917年、実業家の小野金六氏と当時の山梨県知事であった山脇春樹氏を動かし、岳麓開発事業創立準備委員会を発足させると、翌年には県会議員や甲府市会議員への説明会を開催。富士山と富士五湖を中心に開発し、世界に売り込むことで、甲州と日本の発展に寄与する理念が提唱されました。

天晴から見た富士山

小野氏の死や山脇知事の転任により計画は一時停滞したものの、富士山麓開発に前向きな本間利雄知事が着任すると、1925年に富士山麓電気鉄道創立準備委員会が発足。そして1926年、堀内氏を社長とする「富士山麓電気鉄道株式会社」と「富士山麓土地株式会社」が誕生したのでした。富士山麓電気鉄道株式会社は、富士電気軌道株式会社の経営を譲り受け、電気鉄道の建設に着手。1929年から大月駅ー富士吉田駅間で鉄道の営業を開始しました。

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遊覧船「天晴」に乗船

天晴の乗船時間は約20分。遊覧船ということで、船内では景色の解説アナウンスが流れています。

こちらは「六角堂」という日蓮宗関連のお堂。湖に浮かぶお堂ですが、河口湖の水位が下がると、歩いて渡ることも出来るそうです。

河口湖に浮かぶ無人島「うの島」手前で船はUターンし、出港した桟橋へ戻ります。ちなみに、うの島は富士五湖唯一の島ということで、恐らく山梨県で唯一の島です。

天晴に掲げられている旗は武田信玄の家紋「武田菱」。甲府市の市章も武田菱が由来となっているなど、今でも山梨県には武田家の色が残されていることが伺えます。

「風林火山」も信玄の軍旗に記されていた四字熟語

武田信玄は山梨県だけでなく、駿河湾に面した地域も支配下に置き、水軍を率いました。天晴は武田水軍の大型軍船「安宅船(あたけぶね)」がモデルになっている船です。

河口湖から河口湖駅へ

戦前は避暑地だった河口湖。旅館もお客さんを相手にしていたのは夏だけでしたが、富士吉田駅ー河口湖駅間が延伸開業(1950年)すると、戦後復興や高度経済成長期も追い風となり、都心から自然を求めて訪れる観光客が増加。当時から大人気だった遊覧船は、この日も朝から多くの観光客で賑わっていました。

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天晴を下船し、続いては河口湖駅から路線バスで山中湖へ向かいます。こちらもまた富士急行が運行するバスです。

河口湖から路線バスで山中湖へ

山中湖周辺の観光開発は富士山麓土地株式会社が主導となって行われました。

バスの車窓から

原生林に覆われた溶岩地帯の道路網整備と別荘地造成が始まったのは1928年のこと。1928年からの3年間で、テニスコートやスケート場を併設する「山中湖ホテル」や貸別荘、梨ヶ原国際競馬場、富士山五合目スキー場などが次々と完成。1936年には、河口湖や山中湖の周辺が富士箱根国立公園に指定されたことを機に、河口湖畔に山梨県出資の「富士ビューホテル」がオープンしました。

2020年 国勢調査

山中湖畔では、河口湖畔に比べて農業に不適な土地だったことに加えて、政府による富士山への外国人観光客誘致が、観光開発を後押ししたとされています。豊かな自然に囲まれているにも関わらず、現在も山中湖村は一次産業に従事している方が少なく、「宿泊業、飲食サービス業(いわゆる観光業)」が盛んです。

バスは『浅間神社前(富士吉田市)』に停車。こちらは1900年以上の歴史がある北口本宮冨士浅間神社の最寄りのバス停で、富士山頂上へと続く「吉田口登山道」の起点にもなっています。バスからも初詣の参拝客で賑わっている様子が見えました。

富士吉田から御殿場(静岡県)を経由し、小田原(神奈川県)へ至る国道138号線を走り「山中湖朝日丘」というバス停で降車。山中湖畔にはいくつかバス停がありますが、遊覧船に乗る時は、このバス停が便利です。

山中湖から路線バスで御殿場へ

富士五湖の中で最大の面積を誇る山中湖。湖面の標高は約980mで、これは富士五湖の中で最も高く、日本でも中禅寺湖、榛名湖に次ぐ高さです。

そんな湖にゆらゆらと揺れる遊覧船が「白鳥の湖」。九州新幹線「つばめ」や寝台特急「ななつ星」などを手掛けた、水戸岡鋭治氏がデザインした船です。

波風の影響で、船は運航を見合わせていましたが、御船印はゲットすることが出来ました。白鳥の湖を運航する富士汽船株式会社もまた、富士急行グループの会社です。

山中湖にて

1926年に創業した富士山麓電気鉄道株式会社は、1950年に東証プライムへ上場を果たすと、1960年には社名を富士急行株式会社に変更。その翌年に富士五湖国際スケートセンター(現在の富士急ハイランド)が開業しました。

1960年代の高度経済成長期には、富士スバルラインの開通、中央自動車道の調布ー河口湖間の開通、東名高速道路の全線開通などにより、富士山周辺の観光地が加速。現在は首都圏各地に加えて、名古屋・京都・大阪からも、河口湖や山中湖へ直行する高速バスを富士急行が運行しています。

湖畔のお土産屋さんにやって来ました。「山梨 巨峰/白桃 たると」が販売されていましたが、このお菓子のフォルム、どこかで見覚えがあります。特に巨峰は、沖縄の紅芋タルトと見分けを付きません(笑)

山中湖からは再び路線バスに乗り、バスの終点・御殿場駅へ向かいます。

時刻はお昼過ぎ。朝からずっと間近に見えていた富士山が、少しずつ遠くなっていきます。

御殿場駅に到着。今回は、かつて馬車で結ばれていた大月駅から御殿場駅まで移動し、明治時代以降の富士山周辺の観光開発と富士急行の歴史を辿る旅となりました。富士急行は鉄道事業を2022年4月1日から分社化することを決定。分社化された会社の名前は「富士山麓電気鉄道株式会社」です。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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