黒部川と水力発電所建設の歴史~目的はアルミニウムの精錬だった|観光アイデア教科書 vol.34

観光アイデアノート

長野県側の扇沢駅と富山県側の立山駅を結ぶ立山黒部アルペンルート。扇沢駅から立山駅までの直線距離は約25km(アルペンルートの総延長は37.2km)。長野県と富山県を最短距離で結ぶ交通路ですが、飛騨山脈や立山連峰を越えるため、最大高低差は1,975m。様々な乗り物を乗り継いで移動しなければならず、決して便利なルートではありません。今回は前編と後編にわたって、立山黒部アルペンルートが建設された背景(アルペンルートは何のため?)をご紹介します。

黒部川と水力発電所建設の歴史

関西電力による黒部川第四発電所(=黒部ダム)の建設が決定したのは1951年のこと。ダム建設資材を輸送するため、長野県側から黒部ダム建設予定地までを結ぶ「大町トンネル(現:関電トンネル)」の建設も決まりました。

国土地理院地図より

「大町トンネルが出来れば、長野県の大町が立山登山の玄関口になるかもしれない」と懸念していた人物が佐伯宗義氏です。佐伯氏が生まれたのは富山県の芦峅寺。明治初期までの芦峅寺は、日本三大霊山・立山への登山者で賑わっていたそうです。しかし、明治期の価値観の変化により、芦峅寺の賑わいは無くなりました。大町ルート完成によって、芦峅寺のさらなる衰退を防ぐため、佐伯氏の立てた計画が現在の立山黒部アルペンルートに至ります。

国土地理院地図より

黒部ダムが「黒部川第四発電所」ということは、「第一」から「第三」までの発電所ももちろん存在します。黒部川第一発電所にあたるのは1927年に建設された柳河原発電所です。この発電所は宇奈月ダムの完成により水没したため見ることは出来ませんが、下流70mの地点に「新柳河原発電所」があります。

そしてさらに上流へ行くと、黒部川第二発電所(1935年完成)と黒部川第三発電所(1940年完成)があります。これらの発電所を建設するために作られた資材運搬用鉄道が現在の黒部渓谷鉄道株式会社。なお、この会社は関西電力のグループ企業となっています。

現在の富山地方鉄道本線の電鉄黒部駅から宇奈月温泉駅間もまた、発電所建設に必要な資材を輸送するために作られた路線です。この路線は1921年設立の黒部鉄道株式会社によって運行されました。ちなみに宇奈月温泉郷は、1923年の宇奈月温泉駅(当時は桃原駅)開業に合わせてした開湯した温泉郷です。

目的はアルミニウムの精錬だった

黒部鉄道株式会社の親会社・東洋アルミナム株式会社こそが黒部渓谷の開発に乗り出した会社です。その目的はアルミニウム精錬のために必要な電力を供給することでした。

アルミ缶

日本で初めてアルミニウム加工を実用化させたのは、大阪城内にあった官営の兵器製造工場・大阪砲兵工廠(1894年)と言われています。しかし、アルミニウムの原料・ボーキサイトを海外からの輸入に頼っていたこと、アルミニウム精錬に必要な電力が高価であったことなどから、国内でのアルミニウム製造研究はなかなか進まなかったそうです。

飛行機から見た日本アルプス

アルミニウム精錬のために必要な電力を供給するため、黒部渓谷の開発に乗り出した東洋アルミナム株式会社。代表取締役を高峰譲吉と塩原又策とし、1919年に現在の第一三共株式会社内に設立されました。大手製薬会社である第一三共と東洋アルミナムにはどのような関係があったのでしょうか。

東洋アルミナムの代表取締役 高峰譲吉

東洋アルミナムの代表取締役の一人「高峰譲吉」は、Wikipediaで「日本人による開発型ベンチャー企業・スタートアップの先駆者」と紹介されています。

長野県上高地の写真です

1854年、現在の富山県高岡市に生まれ、東京の工部大学校(東京大学工学部の前身)を首席で卒業後、グラスゴー大学へ3年間留学。28歳で農商務省の幹部となり、留学経験を日本の農業・工業に活かせるよう奔走していました。そんな中、アメリカで人造肥料の原料を目にしたことをきっかけに、肥料作りの事業を計画。1887年、33歳で渋沢栄一とともに「東京人造肥料会社」(現:日産化学株式会社)を起業しました。

岐阜県 モネの池にて

起業と同時期に始めた米麹をウイスキー作りに活用する研究も成功し、アメリカで特許を取得。1890年に渡米して研究開発の会社を立ち上げました。1894年には、麹の知識を活かして消化酵素剤のタカヂアスターゼを発明。その薬のサンプルを様々な製薬会社に提供する中で、パーク・デイヴィス社(現ファイザー)が商品化に名乗りを上げ、1895年に胃腸薬「タカヂアスターゼ」がアメリカで発売されました。

上高地にて

現在は販売されていませんが、「第一三共胃腸薬」などの成分に使用されているそうです。タカヂアスターゼはたちまち世界中で使われるようになり、夏目漱石の小説『吾輩は猫である』にも登場します。そして、1898年に渡米した緑茶輸出業を営む西村庄太郎も、シカゴ領事・能勢新五郎からタカヂアスターゼを紹介され、その効果の高さに驚いたそうです。

東洋アルミナムの代表取締役 塩原又策

帰国した西村は、横浜で外国商館への絹織物売込商をしていた友人「塩原又策」にタカヂアスターゼを紹介。事業を広げたいと考えていた塩原は、その薬を日本で販売するため、販売権取得の交渉に乗り出しました。

上高地にて

交渉先はタカヂアスターゼの開発者「高峰譲吉」です。ちょうど高峰もタカヂアスターゼを日本で販売することを検討していたようで、1898年12月、塩原と高峰は委託販売契約を締結。これに伴い、塩原のもう1人友人・福井源次郎の共同出資を受けた匿名合資会社「三共商店」が横浜に誕生しました(1899年)。「三共」という名称は、塩原・西村・福井の3人で起業したことが由来です。

黒部ダムから見た山々の景色

1900年に高峰がアドレナリン抽出に成功したと知ると、塩原は日本におけるアドレナリン販売を三共商店に一任してほしい交渉。これもまた契約に至りました。さらに三共商店は、アメリカでアドレナリンの販売を担っていたパーク・デイヴィス社の日本総代理店に選定され、取り扱う薬の数が増加。1913年に三共株式会社(現:第一三共株式会社)となり、初代社長には高峰譲吉が就任しました。

黒部渓谷の開発へ

三共設立後、高峰は塩原とともに製薬以外の分野にも乗り出します。

黒部川

高峰氏の記録資料の中で、アルミニウムに関する記述が確認できるのは、1910年頃とされています。当時ニューヨークに在住していた高峰は、電気化学専門家・山崎甚五郎とアルミニウムの製造方法などについて論じ合ったそうです。そして、高峰は当時世界最大のアルミニウム精錬・加工会社「アルミナム・カンパニー・オブ・アメリカ」(現:アルコア社)と提携し、日米合弁会社を設立する計画を立てました。

秋田 田沢湖にて

アルミニウムの原料となるボーキサイトは南米ギアナから輸入する一方で、電力は日本国内で10万キロワットを準備するため、高峰は全国の主要河川を調査。故郷・富山県の神通川上流の宮川高原方面において水利使用を出願しました。しかし、当時の日本は第一次世界大戦(1914年)による急速な工業発展に伴い電力需要が急増。各電力会社が競って水力開発を計画し、全国の主要河川に水力使用の出願が殺到しており、神通川水利権にも先願者がいたそうです。

■参考:山間部の水力発電について

他の候補地調査をする中で上がった地が黒部渓谷でした。北アルプスのほぼ中央に位置する鷲羽岳から日本海まで約86km、標高差3000mを流れ下る黒部川。黒部渓谷はその上・中流域に、切り立った深いV字峡を形成しています。急峻であることに加えて降水量も多いことから、水力発電に適した川でした。

一方で、第一次世界大戦の終結とともに戦時生産収縮の時代に入り、アルミは生産過剰となり、高峰のアルミ精錬事業計画は停滞していました。ただ、水利権獲得の関係上、まずは会社を設立する必要性があり、1919年に設立されたのが東洋アルミナム株式会社だったのです。1920年2月、東洋アルミナムは猿飛から柳河原までの水利権を獲得。さらに上流の水利使用出願も認められ、黒部川上流の水利権は、東洋アルミナムがほぼ独占する形となりました。

しかし、第一次世界大戦後の不況の影響や、高峰自身の死去もあり、高峰が計画した日米の合資会社は実現に至らず、1922年に東洋アルミナムはアルミ製造を断念。会社設立の目的をアルミニウム製造から電力供給に変更したため、日本電力株式会社の系列下に入ることとなりました。そして日本電力によって、1923年に資材運搬用の鉄道(現在の黒部峡谷鉄道)が建設され、1927年には「柳河原発電所」が完成。資材運搬用の鉄道は1937年に欅平まで開通しました。

戦前は富山県側から開発が進んだ黒部川と黒部渓谷。一方でアルペンルートの富山県側の玄関口・立山駅の開業は1954年。黒部川の発電所建設とはあまり関係のない経緯で建設された駅であることが伺えます。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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