ブログをご覧いただきありがとうございます。
今回は「2023年 小笠原諸島旅行記」その4をお届けします。
★ 前回の記事は こちら ★
小笠原諸島・北硫黄島を船から観光
2023年7月1日、小笠原海運主催の硫黄3島クルーズに参加し、おがさわら丸で硫黄島から北硫黄島へ向かっています。
12時前、北硫黄島が見えてきました。ここからは周囲約8.8kmの島を約1時間かけて2周し、船上から島を観光します。
島の最高峰は標高792mの榊ケ峰。火山活動によって生まれた成層火山の島ですが、噴火記録や噴気地熱現象は無く、島内には河川もあるそうです。なお、島の北西4~5kmほどの洋上では海底噴火が記録されており、その周辺は「噴火浅根」と呼ばれています。
■ 参考:1
現在この島に暮らしている人はいません。しかし、1991年に行われた調査で、8世紀~15・16世紀頃の祭壇や墓地跡、石器・土器などと共に「石野遺跡」が発掘され、古くから人が定住していたことが明らかになりました。
発掘された遺跡や遺物は本土の縄文・弥生文化とは異なり、ミクロネシア文化圏の影響を受けているそうです。北硫黄島でオセアニアや琉球諸島からの文化が交差したのかもしれないという、有識者の見解もあります。
■ 参考:2
■ 参考:3
遺跡がある?地図に残る2つの集落
周囲を急峻な崖に囲まれているにも関わらず、北硫黄島に人が暮らしていたのは水が得られたが故のことでしょう。
石野遺跡が発掘されたものの、16世紀にスペイン船に発見された当時、北硫黄島は無人島でした。1889年、硫黄島を訪れた田中栄二郎氏が母島へ戻る途中で北硫黄島にも上陸。島の状況を確認し、「北硫黄島は土地が肥沃で、水も得られる(川があった)」と報告したそうです。
田中氏の報告を聞いた石野平之丞は1896年に北硫黄島へ上陸した後、小笠原島庁の許可を得て、1899年に仲間とともに北硫黄島へ移住。これにより北硫黄島の開拓が始まりました。
国土地理院地図を見ると、島には「石野村」と「西村」という2つの集落の存在を確認することが出来ます。開拓者たちはまず石野村を中心にサトウキビ栽培を始め、やがてヘゴ、ショウガ、粟などの栽培もしていたそうです。
こちらの海岸が石野村。岩肌が見えている辺りに製糖工場があったそうです。またその周辺は谷のような地形になっており、ここに「渋川」という川が流れています。
一方こちらの海岸が西村。平地は無さそうですが、どのように人々は暮らしていたのでしょうか。
さらに、海鳥の羽毛や干し肉、魚の干物を父島や内地へ出荷するなど、農業と漁業で島の経済は潤い、移住者は年々増加。1915年の最盛期には、212人の島民が居住していました。
1902年には石野村に私設の小学校も開校。西村に住んでいた子供たちは毎日この山を越えて通学していたそうです。
父島にある小笠原村ビジターセンターには、人が住んでいた当時の北硫黄島の生活用品が展示されています。
1918年には北硫黄島青年会が結成されるなど、島の生活は充実していたようですが、太平洋戦争により全島民が強制疎開。戦後から現在まで無人島状態が続いています。
■ 参考:4
島全域が国立公園の特別保護地区となっている一方で、私が調べた範囲では南硫黄島や硫黄島のような立ち入り制限は無さそうです。今後、石野遺跡の調査等も進んでいくのでしょうか。
さらば火山列島
さらば北硫黄島、そして火山列島。これにておがさわら丸による硫黄3島クルーズは終了。父島まではおよそ5時間半の船旅です。
日中にも関わらず、おがさわら丸の船内はかなり静か。早朝から多くの方が太陽照り付けるデッキで過ごしていたため、皆さんやられていたのでしょう。
私も軽く昼寝をするつもりが、目覚めた頃には母島が後方に見えていました。
夕焼け空を行くおがさわら丸。普段はコンテナが置かれている場所で景色を楽しむことが出来たのも貴重な経験です。
クルーズの最後は海に沈む夕陽。天気に恵まれたおかげで、非常にいい船旅となりました。
18時半、おがさわら丸は定刻通り父島・二見港に到着。父島で2泊した後、再びおがさわら丸に乗船し東京へ帰ります。
.
今回はここまで。本日もありがとうございました。
★続きはこちら★
コメント