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今回は「2022年 与路島・請島旅行記」その5をお届けします。
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ノスタルジックな集落景観
2022年8月12日の夕方、東京駅から3日目にして、ついに奄美の秘境「与路島」へ上陸しました。
こちらは港にある船の待合所。島言葉が書かれており、正面の〈いーおーちゃーどー〉は「ようこそ」、右手の〈また おーりんしょれよ〉は「また、いらっしゃい」という意味になるそうです。
与路島での滞在時間は翌朝7時までの約15時間。レンタカーやレンタサイクルはありません。暗くなるまで、島を歩いて観光します。港からまずは島のメインストリートへ。
そこにはノスタルジックな光景が広がっていました。
家々を囲む石垣はサンゴ(琉球石灰岩)を積み上げて作られたものです。与路島の特徴的な集落景観は、島の宝100景(国土交通省)にも選ばれています。
また、サンゴの石垣に立てかけられていたのは「ハブ棒」。サンゴの石垣の隙間にはハブが住み着きやすいようで、ハブが出現したときには、この木の棒で叩いて?ハブを退治するのでしょう。
私の興味は「この景色がいつの時代のものなのか」という点です。しかし、そうした情報がネット上には無いため、ここからは与路島の歴史を考察します。
与路島に残るサンゴの石垣と島の歴史を考察する
2020年の国勢調査によると、与路島の人口は70人。その半数以上が60歳以上というこの島で、人々はどのような生活を営んでいるのでしょうか。
与路島で最も多いのは「教育、学習支援業」従事している方々です。人口減少と高齢化が著しい一方で、与路島には小中学校があり、この学校で勤務している先生方も島で暮らしています。
こちらが与路島小中学校。1879年(明治12年)に設立された歴史ある学校です。学校のホームページによると、令和6年度は島外からの留学生6人が在籍しています。
この学校の資料室には、島内で見つかった鎌倉時代の遺物も残されており、与路島は古い時代から他の地域や外国と交流していたようです。かつて、奄美群島一帯は琉球王国の支配下だった時代がありましたが、与路島もまた琉球王国との繋がりが強かったとされています。
■ 参考:1
与路島出身のクゥイチャンがオオアムシャレ(最高神官の次の位に任命された親ノロのこと)に任命され、首里城の王府を訪れたことがあるそうです。「与路ノロ祭祀具」は瀬戸内町指定の有形民俗文化財に指定されています。
また、琉球王朝で編纂された歌謡集【おもろさうし(1623年編集 13-938)】に登場するのが以下の一節です。
『一、勝連が 船遣(や)れ 請 与路は 橋 し遣り 徳 永良部 頼りなちへ みおやせ 又ましふりが 船遣れ』
これを訳すと「勝連の船出 請島、与路島を橋にして 徳之島、沖永良部島を頼みとなる者(縁者)として貢物を奉れ 又ましふりの船出」となり、かつての請島や与路島が海上交通の要衝だったことが伺えます。
■ 参考:2
「日本一土俵が多い島(人口1人あたりの土俵の数が多い)」と言われる奄美大島。そのルーツは沖縄の「組み相撲」であることから、与路島の集落にある立派な土俵もまた沖縄由来の文化とひとつと言えるでしょう。
■ 参考:琉球王国の一部だった島 沖永良部島旅行記
奄美・琉球王国との関係
与路島の集落に残るサンゴの石垣も、琉球(沖縄)から伝わった文化と考えられます。
1544年から琉球王国・尚清王は首里城南面の石垣を二重にする工事を行いました。2年余りの大工事には、沖縄や八重山だけでなく、奄美からも労働力が動員され、これを機に琉球王国から奄美に城壁の石垣の組み方が伝わったようです。
ちなみに本州でも、1579年に築城された安土城で石垣が構築されたのを皮切りに、全国に石積みの技術が広まり、次第に民家にも石垣が構築されました。ただ、喜界島に話を戻すと、江戸期以降の喜界島に、本州の石積み技術がどれほど影響を与えたかは分かっていないようです。
太平洋戦争で沖縄が戦場となる頃、与路島にも何度も空襲が襲いました。1945年3月には空襲で小学校の仮校舎焼失。
サンゴの石垣(石灰岩)は火がかかると、生石灰となってボロボロに崩れてしまう性質があるため、石垣として機能しなくなります。つまり、現在残されているサンゴの石垣の多くは戦後、それも比較的最近作られたものということです。
■ 参考:3
■ 参考:4
喜界島の阿寺集落にも空襲が襲い、戦後は保科三蔵氏が石垣を積み続けたとされています。保科氏が石積みをする前は、奄美大島から職人を呼んで石を積んでいたそうです。そもそも、喜界島の阿寺集落でサンゴの石垣が必要とされた理由は以下の通り。
- 台風時の強風を防ぐため
- 外観を美しく飾りながら、外からの視線を防ぐ
与路島は上記の理由に加えて、サンゴが貴重な資材だったこともあるでしょう(石が手に入りにくい)。
戦後の高度経済成長期、全国各地でインフラ整備が進むと共に普及したのが「コンクリートブロック」です。沖縄や奄美の島々にもブロック塀が流入すると、以下の理由でサンゴの石垣は数を減らしていきました。
- サンゴの石垣の隙間にはハブが住み着く
- ブロック塀のほうが風に対する強度が強く、補修や積み直しなどの手間がない
- 石垣を管理する人材の不足(人口減少・高齢化)
- 自動車の普及による道路の拡張
- 条例や環境保護の観点などからサンゴ(死骸を含む)の採取が出来なくなった
与路島もブロック塀が普及していたようです。しかし、島ならではの風や潮の影響で、時間の経過とともブロック塀も内部の鉄筋がむき出しとなり、サンゴの石垣のほうが耐久性に優れているとの認識が広まりつつありました。
2009年に「島の宝100景」に認定されたことをきっかけに、サンゴの石垣を復元・保存活動が本格化。与路島サンゴ石垣等史跡環境保護組合が設立され、現在に至ります。
■ 参考:5
島の人口と産業
与路島にブロック塀が流入してきた頃、島の人口は約1,000人(1,955年)。明治時代にも700人以上が暮らしており、与路島は現在の瀬戸内町エリアで最大の集落でした。
■ 参考:6
■ 参考:7
地図を見ると、集落と山の間に広がる平地が「碁盤の目状」となっていることから、かつては農業(畑作・稲作)が盛んだったのでしょう。現在の農業は園芸と畜産が中心。また、1人で何役もこなす島民(複業人材)が多いようで、先ほどご紹介した産業別の従事者数はあまり参考になりません。
■参考:8
与路島小中学校には黒糖作りに使う道具や、イ草などで作る筵(むしろ:わらなどを編んで作った敷物)を編む道具、大島紬の糸繰りの道具などが保存されています。また、ソテツの実(アカナリ)の販売や、マンガンの採掘も行われていたようです。
■ 参考:9
こちらは与路島郵便局。商店は2軒あるようですが、GoogleMapには載っておらず、この時は見つけることが出来ず。
小さな消防車を発見。この島で数少ない自動車のうちの1台です。もちろん島に信号はありません。
密入国・密輸を許さないために、不審な船や不審な人を見かけたら110番通報してくださいとのことですが、この島には警察もいません。何かあったときには、瀬戸内警察署から船で駆けつけるのでしょう。
集落の外れにある与路高千穂神社は草木に覆われていました。
ハブが出る可能性もあるので、こうした草むらに安易に立ち入ることは危険です。
こちらは公園やキャンプ場だったのでしょうか。与路島に上陸してまだ20分。太陽が沈むまで、もう少し島を歩いてみたいと思います。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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