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今回は「2024年 年末 青春18きっぷの旅」その10をお届けします。
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がっかり世界遺産① 高島炭鉱北渓井坑跡
2024年12月30日の14時、長崎市の有人島・高島を歩いて観光しています。

こちらは島の北部にある高島炭鉱北渓井坑跡。遊具のない公園にしか見えませんが、端島炭坑(軍艦島)とともに「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として世界文化遺産に登録されているスポットです。

石碑には「日本最初の洋式竪坑」と刻まれています。幕末の開港により蒸気船の燃料として石炭需要が高まるなか、トーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)と佐賀藩の出資事業によって開発されました。

1868年に開削が始まり、翌1869年に着炭。坑道の深さは43mに達し、1日あたり約300トンを出炭したといわれています。その後、土佐藩の政治家・後藤象二郎に払い下げられましたが、海水流入の影響により1876年に廃坑となりました。

こちらは北渓井坑跡にあった操業当時の写真。櫓が立ち、その周辺には建物があったり、トロッコの線路が敷かれていたりします。

しかし、現在はほとんど遺構が残っておらず、その価値は分かりにくいのが実情です。ボイラー施設跡を示す案内板は設置されていますが、その前に広がるのはコンクリートの地面だけで、往時の姿を想像するのは容易ではありません。

こちらは当時の様子を再現したジオラマ。北渓井坑の北側に位置する入り江(南風泊)は、採掘した石炭を積み出す港として利用されていました。港には北渓井坑から続くレールが敷かれており、手押しのトロッコで石炭を運搬していたそうです。

北渓井坑跡にはトロッコレール跡もあります。しかし、実際のレールが残っているわけではなく、地面にレンガが埋め込まれているだけのため、リアリティは感じられません。

こちらが現在の北渓井坑跡から南風泊へと続く道。恐らくこの道沿いにトロッコの線路が敷かれていたのでしょう。

そしてこちらが現在の南風泊。

桟橋の形は変わっていますが、現在も港として機能していることが分かります。
がっかり世界遺産② グラバー別邸跡
そして、北渓井坑跡の近くにあるのがグラバー別邸跡です。

スコットランド生まれのトーマス・グラバーは、21歳だった1859年に、香港を拠点とするイギリス系貿易商社「ジャーディン・マセソン商会」の代理人として長崎に着任。ほどなくして「グラバー商会」を設立し、米欧の貿易商人と競い合いながら、幕末の諸藩に艦船や武器、弾薬を売り込みます。

1860年代半ばに、グラバー商会は長崎における外国商館の最大手に成長していたそうです。1867年には、岩崎彌太郎が土佐藩の開成館長崎出張所に赴任。グラバーは早速、彌太郎をグラバー邸に招いて商談を行い、坂本龍馬や後藤象二郎も同邸に出入りしていたと伝えられています。
■参考:開成館と後藤象二郎について

貿易にとどまらず、事業経営にも乗り出したグラバーは、1868年に佐賀藩から経営を委託された高島炭坑にイギリス人技師を招き、日本で初めて蒸気機関を用いた洋式立坑「北渓井坑」を建設。高島を訪れる機会が増えたことから、グラバーはこの地に建物を構え、高島での拠点としました。

このグラバー邸別邸も世界文化遺産の関連遺産のひとつに位置づけられています。施設は後に三菱高島鉱業所の迎賓館として使用されましたが、1948年に取り壊されました。建物は主屋と付属屋から成り、主屋は洋風建築だったと伝えられているものの、残された資料は極めて少なく、その詳細は明らかになっていません。

しかし、北渓井坑と同様に、グラバー別邸跡も残っているものがないため価値が分かりにくく、がっかり世界遺産と言えるかもしれません…2つの世界遺産関連スポットを10分ほどで見学し、続いて目指すのは丘の上にある高島小中学校です。
三角溝も地味なスポット
グラバー別邸跡から高島小中学校へ向かう途中、GoogleMapで気になったスポットが「三角溝」です。

案内板と石碑も設置されていました。この階段を下りた先に三角溝があるようです。

こちらが三角溝。オランダと交易のあった長崎や平戸にみられ、2枚の石板を鋭角に組み合わせた溝で、別名オランダ式側溝とも呼ばれています。

いつ頃、誰によって造られたのかといった詳しいことは分かっていないそうですが、珍しい溝であることは確かなようです。しかし、なぜそれが貴重なのかは、専門的な知識がなければ理解しにくいところがあります。見た目はただの溝で、地味なので、説明がなければ価値に気づくのは難しいかもしれません。

そして、三角溝の先にも道が続いていたので、少し行ってみます。GoogleMap上では、この道を進んで行けば小中学校に辿り着くことが出来そうです。

柵があり、コンクリートの地面も見えているので、定期的に人が歩いていると思ったのですが…

間もなく行き止まりとなったので、来た道を引き返します。時間的に小中学校へ向かうのは諦めて、港へと戻ることに。

大きく成長した木に柑橘系の果実が実っています。恐らくこの家には人が住んでいないのでしょう。1980年の国勢調査によると、高島町の人口は6596人。1980年はすでに端島が無人化し、高島町に属する有人島は高島だけ。つまり、今から45年前の高島には、6596名が暮らしていたのです。

こちらは倉庫でしょうか。新しい倉庫もあれば、屋根が壊れている倉庫もあり、状況がよく分かりません。

看板には「高島町立病院 職員宿?」と書かれていますが、現在の高島には診療所があるだけで病院はありません。ただ、人は住んでいそうな雰囲気で、建物の造りも比較的新しいです。

こちらも廃墟。

このアパートも廃墟のまま残っています。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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