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2020年11月、室蘭・川崎・四日市・北九州と並び、「日本五大工場夜景」のひとつに選ばれている山口県周南市へやって来ました。今回は周南市内にいくつかある夜景スポットを巡ります。
日本五大工場夜景 周南を巡る
最初にやって来たのは周南大橋。この橋の上が夜景の名所として紹介されています。
こちらが橋の上からの景色。工場は24時間稼働していたり、安全上夜も電気をつけていたりするので、こうしたSFチックな光景を見ることが出来ます。なぜ周南市では、こうした景色が見られるようになったのでしょうか。
発展の背景にあるのは徳山下松港
海沿いの広域かつ連携した工業地帯を、日本では「コンビナート」と呼びます。
周南コンビナート発展の背景にあるのは、天然の良港「徳山下松港」の存在です。1922年に特別輸出入港の指定を受けた徳山港が、1948年に徳山下松港として開港。2011年には国際拠点港湾にも位置付けられています。
徳山下松港の特徴は以下の通り
- 港が島々に囲まれているため静穏
- 港湾入口の水深が30m以上もある
- 関門海峡や豊後水道を通じてアジア諸国と近接している
1700年代中頃、長州藩・毛利重就氏が米・塩・紙の生産を奨励した殖産政策「三白政策」の際、生産物を運ぶための港を富田・徳山・下松などに整備。日本海側から下関を通り大阪へと向かう「西廻り航路」や北前船によって、周南周辺で生産された米・塩・紙は全国に知れ渡り、それを買い付けに大阪商人がおしかけるなど、徳山では海運が発展したそうです。
周南大橋の次に向かうのは晴海親水公園。こちらは徳山駅からも近いので、鉄道の旅の際にも寄り道することが出来ます。徳山駅が開業したのは1897年。山陽鉄道によって広島と、連絡船によって門司(北九州市)と結ばれたことで、徳山の町は人々や物資の往来で賑わったそうです。しかし、1901年に山陽鉄道が下関まで全通すると、徳山の活気は失われました。
石油精製と工場建設
1904年2月に日露戦争が勃発。これに対処するため、1905年4月に海軍練炭製造所が徳山に設置されることとなり、その後は海軍の軍需用石油精製拠点となりました。
第一次世界大戦の戦争景気により多角化を進め、1916年にオーストラリア産亜鉛鉱を輸入して焙焼する工場(現:日本金属株式会社徳山精錬所)を建設したのが神戸の鈴木商店。一方で、大阪の株式会社岩井商店は第一次世界大戦による鉄鋼製品の輸入途絶に直面していました。
岩井商店は鉄鋼製品の国産化を目指し、大阪の亜鉛めっき株式会社の経営に参画。1918年に竣工した徳山の工場が現在の日鉄ステンレスです。さらに、岩井商店はソーダ灰(炭酸ナトリウム)や苛性ソーダについても国産化を目指し、1918年に日本曹達工業(現:株式会社トクヤマ)を設立。徳山の塩田跡地に工場を建設しました。
明治末の全国の非能率な塩田の整理した「第一次塩業整理」によって誕生した「塩田跡地」。下松においても「下松大工業都市建設計画(1917年)」が発表されると、塩田跡地の用地買収が進み、以下の事業所が設立されました。
- 1917年:日本汽船株式会社笠戸造船所(現:日立製作所笠戸事業所)
- 1918年に笠戸島船渠株式会社(現:株式会社新笠戸ドック)
- 1930年に日本石油株式会社下松製油所(現:ENEOS株式会社下松事業所)
- 1934年:東洋鋼板株式会社
太華山の山頂がおすすめ
晴海親水公園の次に向かうのは太華山の山頂展望台。周南の工場夜景を一望することが出来る、個人的には一番のおすすめスポットです。山頂までは車で登ることが出来ます。
1935年、日本曹達工業の工場長であった岩瀬徳三郎が独立し、周南市内に東洋曹達(現在の東ソー)を設立。株式会社トクヤマと東ソー株式会社はそれぞれソーダ事業に取り組み、現在は世界的な企業に成長しています。
海軍の拠点は戦争による空襲で壊滅しましたが、その跡地は出光興産が払い下げを受け、1957年に徳山製油所を建設。これは当時、日本最大規模の製油所だったそうです。1964年、周南地域は「工場整備特別地域整備促進法」が適用され、重化学工業を発展させるための諸政策が実行されました。
現在は石油化学をはじめ、無機化学、鉄鋼、セメントなど、様々な大企業による基礎素材型産業が集積し、周南地域(周南市・下松市・光市)の製造品出荷額等は山口県全体の3分1を占めています。
ちなみに、夜景の写真を撮るのは結構難しいです。写真や映像では、なかなかその美しさや迫力が伝わりません。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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