飯山線で新潟から長野へ!雪深い山奥に鉄道が走る理由 開業までの歴史|2022旅行記5

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今回は「雪を見に行く旅 2022」その5をお届けします。

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かつては水運が主流だった

雪深い新潟県と長野県の山奥を走る飯山線。冬は雪で列車が運休になるだけでなく、並走する国道117号線も通行止めとなることがあります。

桑名川駅に停車していたラッセル車

この日の飯山線は平常通りの運行。現在は除雪車があるので、大雪が降っても、長くても数日で運休や通行止めは解除されます。冬の間ずっと、人やモノの動きが止まるようなことはありません。

飯山線は川沿いを走る

除雪車がない時代に活用されたのが川です。写真の通り、流れのある川が凍ることはなく、さらに気温よりも水温が温かいため、川沿いは積雪も少なめ。江戸時代の幕府も、年貢米や飢餓の時の救援物資の輸送など、信濃川~千曲川の利用価値に期待を寄せていたそうです。

■参考1

並走する国道117号線は古くから街道として整備されていた

信濃川~千曲川の水運は、江戸時代以前から計画されていたものの、街道を利用した人やモノの運送で利益を得ている人たちは当然反対。1790年になってようやく、西大滝~福島村(現須坂市)間で通船を行う許可が下り、これを機に信州では水運が盛んになりました。

■参考2

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は IMG_7183-1024x768.jpg です

ただ、西大滝から下流方面(新潟方面)には難所が多く、舟の運航の障害物となる岩を割る工事が始まったのは、江戸時代の末期にあたる1828年。西大滝~津南町・割野(新潟県)間で通船の検証が行われたのは、それから10年後、1838年のことでした。

その後も信濃川~千曲川の通船は続いたようですが、1893年、信越本線の直江津~長野~軽井沢~横川間(~高崎)が開業。日本海側と関東地方が鉄道によって結ばれると、水運はその役割を取って代わられることとなります。

現在の飯山駅

飯山市は信越本線の開業で産業が変化した町です。古くから飯山は信州と日本海を結ぶ交通の要所で、江戸時代も千曲川と街道を通じた物流によって栄えました。しかし、信越本線は飯山を通らず、物流拠点としての機能は失われ、その後は農業や地場産業により発展することとなります。

2020国勢調査より

現在の飯山市の産業構成を見ると、農業に従事している人が多く、稲作やアスパラガス、キュウリなどの生産が盛んなようです。

RESASより

2015年からは、北陸新幹線が飯山駅に停車するようになりましたが、人口減少は止まらず。飯山市のホームページには、高度経済成長期以降、『産業の立地する条件をもたなかったこと、さらに豪雪地帯であるというハンディもあって経済成長が停滞』とあります。

飯山線開業の背景にある水力発電所建設

飯山線(当時の飯山鉄道)の建設が始まったのは、信越本線の開業から10年以上経った1917年です。

1921年、信越本線・豊野駅~飯山駅間が開業。そこから新潟方面に延伸され、1929年に国鉄十日町線と線路が繋がり全線開通となります。地元の有志により発起されたという飯山鉄道。鉄道建設の機運が高まった背景には、千曲川・信濃川を通じた水運の衰退、それに伴う川沿い地域経済の衰退に対する起爆剤的な期待があったのかもしれません。

しかし、資金が足りず、信越電力の出資を受け、飯山鉄道の株式の大半を信越電力が保有する状態で、鉄道路線の建設は始まりました。

日本で火力発電による電力供給が始まったのは1887年。1894年に日清戦争が起こると、原料となる石炭の価格が高騰し、各地で水力発電所の設置が盛んになります。当時、信越電力は信濃川の支流・中津川に高野山ダムと中津川発電所の建設を計画しており、この建設資材の輸送手段として飯山鉄道を必要としてたのです。

車窓からの景色

1924年までに、中津川沿いには3つの発電所が設置されましたが、この時点で飯山鉄道が開業していたのは西大滝駅まで。中津川下流、信濃川の合流地点に近い津南駅(当時の越後外丸駅)まで飯山鉄道が開業したのは1927年のことでした。

中津川沿いのダムと発電所はすでに完成しており、わざわざ西大滝より山奥へ鉄道を延伸させる必要はないように思えますが、信越電力はさらに信濃川本流にも発電所を建設する計画がありました。その発電所というのが、現在の東京電力・信濃川発電所です。

地味な景色が続く

飯山鉄道が津南駅まで開業した1927年は「昭和金融恐慌」が起きた年。電力需要が減少し、経営不振に陥った信越電力は当時の大手・東京電燈に吸収されました。一方で、1929年に飯山鉄道が十日町まで延伸開業していることから、東京電燈は飯山鉄道の株式と発電所計画を引き継いだと考えられます。

飯山~豊野間

1931年に中国東北部で起きた満州事変をきっかけに、日本は太平洋戦争まで続く戦争の時代を迎えます。今ではこの時期を「十五年戦争」といいますが、東京電燈も軍需産業を主とする経済の立ち上がりと、それに伴う電力需要の増大を予想していました。

飯山~豊野間

1936年、信濃川本流の発電所建設工事がスタート。西大滝ダムから発電所まで地下水路が引かれ、1939年からは同社の予想通り、電力が不足していた首都圏に向けて送電が行われるようになりました。

飯山駅出発直後

また、1938年には当時の鉄道省によって、信濃川本流に宮中取水ダムと千手発電所(いずれも十日町市)も建設されています。火力発電だけではなく、1872年に開業した鉄道も石炭を多く利用していたため、電化が進みました。

1895年(=日清戦争の翌年)に日本で最初の営業目的の電車・京都電気鉄道が開業。1909年には山手線も電化されるなど、鉄道の電化も水力発電の需要を高めました

十日町~津南間

現在、宮中取水ダムを利用した発電所は、千手発電所・小千谷発電所・新小千谷発電所の3か所(総称:信濃川発電所)があり、JR東日本の自営電力の約4割を賄っています。これらの発電所やダムの建設にも、飯山線が活用されました。

数々の発電所が建設された津南町は、日本有数の水力発電地帯となりました。また、山奥の秘境「秋山郷」の人々の暮らしも、水力発電と飯山鉄道の開通で一変したと言われています。それでも秋山郷はあまり秘境ということで、1892年から1936年まで義務教育が免除されていました。

2020年国勢調査より 津南町 農業従事者が多い
2020年国勢調査より 栄村 農業従事者が多い

ただ、津南町や栄村など、飯山線沿線は町村の合併が多かったこともあり、ネットを調べても歴史があまり出てきません。江戸時代以降、どのような暮らしをして年貢を収めたり、現金収入を得ていたのかは気になるところです。

戸狩野沢温泉で乗り換え 長野駅へ

今回越後川口駅から乗車した列車は戸狩野沢温泉行き。

この駅があるのは飯山市野沢温泉には飯山駅からアクセスするのが一般的で、戸狩野沢温泉駅が最寄りではありません。1987年までは戸狩駅という名称でした。

ホームにあった野沢温泉道祖神

日本で唯一、名前に「温泉」と付いている野沢温泉村。温泉を発見したのは聖武天皇(724~748年)の時代の僧・行基とも言われています。江戸時代は24軒の宿があり、明治初期には約2万5千人もの湯治客が訪れたそうです。

左の列車から右の列車に乗り換え

野沢温泉といえば「野沢菜」発祥の地でもあります。江戸時代の住職が京都から天王寺蕉の種を持ち帰り栽培をしたところ、突然変異をおこし、野沢菜が誕生したそうです。

ホームと列車の間には大きな段差と幅がある

1919年、オーストリア人のテオドール・エードラー・フォン・レルヒ氏によって、日本に本格的なスキーが持ち込まれたことをきっかけに、1923年に野沢温泉スキー倶楽部が発足。冬場の産業として、スキー場開発とスキー客の誘致が始まり、こうしたスキー客や湯治客によって野沢菜が普及していきました。

戸狩野沢温泉駅の東に野沢温泉がある一方、西にあるのが戸狩温泉。こちらは戦後にスキー場が出来た後、温泉が出来たのは1991年という、比較的新しい温泉です。

まとめると、雪と山の地形が信濃川・千曲川という流れを作り、川は人やモノの移動を支え、雪解け水と地形が電気を生み出し、雪山がスキーという観光資源になり… 地域の特性を最大限に生かした産業が営まれています。そうした発展の過程で飯山線は誕生したのです。

飯山駅から長野駅までは北陸新幹線と並走

戸狩野沢温泉駅を出発すると、列車は先ほどご紹介した飯山駅を経由し、飯山線の終点・豊野駅へ。乗り換えの必要はなく、そのまま長野駅まで乗車することが出来ますが、豊野~長野間はJRではなく、しなの鉄道の線路を走るため、別途280円を支払う必要があります。

車窓に広がるリンゴ畑

ただこの時は車内での検札や案内は無く、長野駅でも改札を出ずにJR線へ乗り換えることが出来てしまうため、お金を支払うタイミングが分からず…

最後まで雪の影響を受けることはなく、定刻通り長野駅に到着。一旦改札を出て、豊野~長野駅間の運賃を支払いました。ここからは篠ノ井線・中央線を乗り継いで、東京へ向かいます。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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