中央本線 長野発大月行き乗車!乗り換え1回 普通電車で長野駅から東京駅へ|2022 旅行記6

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今回は「雪を見に行く旅 2022」その6をお届けします。

★前回の記事★

乗り換え1回 普通電車で長野駅から東京駅へ

飯山線を乗り通し、新潟県・越後川口駅から長野駅にと嫡子ました。

引き続き青春18きっぷを利用し、信越本線・篠ノ井線・中央本線経由で東京へ帰ります。

乗車するのは17時13分発「大月行」の列車。こちらは2023年1月現在、中央本線の上り線に1日1本設定されている長距離列車で、長野駅から大月駅までの約200kmを4時間以上かけて走ります。中央本線には下り線にも1日1本、『高尾駅発長野駅行(乗車時間4時間41分)』が設定されていますが…

今回乗車するのが④の大月行き

長野駅17時13分発大月行きが終点の大月駅に到着するのは21時27分。そこから4分の乗り換え時間で『中央特快東京行』に接続しています。つまり、長野駅から東京駅まで電車で移動しても、乗り換え回数は1回しかないのです。便利ではありますが、なかなか過酷でした(笑)

幸いボックスシートを確保することは出来ましたが、ボックスシートが無い車両が割り当てられることもあるようです。そして、夕方が出発時間なので、車窓は基本的に真っ暗。窓の外を眺めようとしても、窓が鏡になってしまうので、ひたすら自分と見つめ合うこととなります。

長野駅を出発してから約30分、姨捨駅からの夜景は綺麗でしたが、停車時間は3分。

駅のベンチにも雪が降り積もり、何より寒く、ゆっくり景色を楽しむ余裕はありません。

お手洗いが付いていたのは安心のポイントです。ただ、私は食料と水分を買わずに乗車したため、夕食時に空腹と戦うこととなりました。一応松本駅で10分、甲府駅で8分の停車時間があり、どちらの駅にもコンビニはあるので、迷わず走れば食料もゲット出来ると思われます(水分はホームの自動販売機で購入しました)。

車窓はずっとこんな感じ。空腹を我慢しながらじっと座り、自分と見つめ合う… まさに修行のような移動です。あまりに退屈だったので、この時は中央本線の歴史を調べていましたが、これがなかなか面白いものでした。

長野発大月行き乗車

明治時代、政治制度の全国的統一・軍事力の強化及び近代諸産の育成・殖産興業政策を推進するため、鉄道が陸運における重要な輸送手段としての役割を担うこととなりました。

■参考1

1時間20分で松本駅到着

イギリスから資金や資材、技術導入の支援を受けることを前提に、1869年に鉄道敷設が決定されると、まずは東京~京都間の開通を目指すこととなります。その経路の候補として挙がったのは、東海道【海沿い】と中山道【山の中】です。東海道沿線はすでに陸運・海運ともに発達していたこともあり、中山道沿いに鉄道を通す調査が始まりました。ちなみにこの調査の途中の1872年(=東海道か中山道か、まだ決まっていない状態)、明治政府によって新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開業しています。

ボイル氏が調査した路線

1874年から1876年にかけて、イギリス人土木技術者・リチャードボイル氏によって行われた調査でも、やはり中山道沿いに鉄道を建設すると、内陸部の開発が進むだけでなく、太平洋や日本海へ繋がる路線を加えることも出来るとされました。内陸から日本海へ繋がる路線の具体例として、ボイル氏は現在の飯山線が走る経路の調査を行っています。また明治時代、日本が世界一の輸出量となっていた「生糸」、その主要生産地である群馬県や長野県諏訪など、沿線地域も鉄道に期待を寄せていたようです。

松本を過ぎると雪も少なくなった

しかし、1877年に起きた西南戦争の影響で、鉄道建設計画は遅延を余儀なくされます。西南戦争が終わった1878年、京都からまずは琵琶湖を越えた先の大垣を目指す工事が始まりました。一方で、東京方面からの経路は未だ定まらず。1882年、土地を用意することが出来た上野駅から高崎駅までの工事が始まり、1884年に全通しました。そして上野~高崎間の工事をしていた1883年、ようやく中山道経由の鉄道路線の着工が内定します。

しかし、群馬県と長野県の県境にそびえる難所・碓氷峠をどのように越えるかについては、結論が出ていなかったそうです。そうした状況でしたが、来るべき内陸部の鉄道建設工事に向けて、1885年、直江津港から資材を運搬するための路線の建設が始まりました。碓氷峠越えだけでなく、木曽川・長良川・揖斐川を渡る工事にも苦戦が予想されていたことから、1886年に改めて諸々検討されたようです。その結果、『工事が長引く=建設費がかさむ』『開通後の鉄道もスピードが遅くなる』ことが分かり、この年に東京~京都間の鉄道は東海道沿いに建設されることとなりました。

諏訪も生糸の産地

その一方で、直江津港から内陸に向かう資材輸送線の建設は続き、ついには碓氷峠を越えて、1893年に直江津~長野~上田~高崎間が完成(後の信越本線)。この鉄道は大量の生糸を輸送することとなり、日本の外貨獲得に大きく貢献することとなります。また、計画の変更がなく、東海道より先に中山道沿いに鉄道が完成していたら、飯山線の地位も今より高いものになっていたかもしれません。

出発から3時間15分 甲府駅

新橋~横浜間の鉄道が西南戦争の兵員を港へ運送するのに役立ったことから、当時の軍部も、鉄道による輸送力増強を求めていました。ただ1887 年、当時の陸軍・参謀本部長有栖川熾仁親王は、海沿いの鉄道(=東海道本線)が軍事輸送の観点からよろしくないとする「鉄道改正建議案」を政府に提出しています。

東京~長野駅間に中央本線が開業した理由

その後も、軍部による「海から離れた場所に鉄道を建設すべし」の主張は繰り返され、同様の主張をする政治家も登場し、建設されることとなったのが中央本線なのです。

21時27分 大月駅到着 右の列車に乗り換え

鉄道建設が日本経済発展の根幹であり、経済の好不況に影響されることなく、政府が推進すべきだという観点から、1992年に制定された鉄道敷設法。この法律によって、政府が建設すべき約30路線が定められると、八王子~甲府~下諏訪~伊那~名古屋間の路線、つまり軍部が求めていた内陸の路線(=現在の中央本線)敷設が決定されました。

21時31分 中央特快東京行き乗車

中央本線の敷設が決定したことを受けて、長野県が政府に対し、長野駅から中央本線に連絡する鉄道の敷設を要請。その結果、現在の篠ノ井線建設も決まり、1906年6月、長野~松本~甲府~八王子間が鉄道で結ばれました。

高尾駅から先は都会の景色へ

さらに軍部は、日清戦争前後から鉄道国有化を求めていました。財界もまた、流通促進と国内市場拡大のため、私鉄が増加した日本の鉄道網の整備を政府へ要求するようになります。1906年10月に制定された鉄道国有法によって国有化された鉄道のひとつが、甲武鉄道の御茶ノ水駅~八王子駅間です。

甲武鉄道は1889年から新宿~立川~八王子間で開業し、1904年には当時の飯田町~中野間で、日本の鉄道で初めて、電気を使った営業運転を開始していました。甲府駅までの区間も、1931年という早い時期に電化されています。23時7分、甲武鉄道の終点・御茶ノ水に到着しました。以上、長野駅から約6時間の電車の旅でした。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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