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今回は「2023年 開国の歴史を辿る旅」その13をお届けします。
★ 前回の記事は こちら ★
函館のペリー広場&提督来航記念碑へ
2023年8月13日、青森から青函フェリーに乗り、早朝の北海道・函館港にやって来ました。
今回函館にやって来た目的は「ペリー提督来航記念碑」を見ること。函館港からペリー広場までは少々距離がありますが、歩いて向かうこととします。

こちらは道路沿いにあった、ペリー来航の歴史を紹介する案内板。1854年3月、神奈川条約の締結により箱館港の開港が決まり、この予備調査のため、ペリー艦隊は箱館に入港することとなります。
■ 参考:箱館が開港地に選ばれた理由

こちらは歴史がありそうな日本通運の倉庫。1907年に函館駅が開業してから、函館では小規模な運送業者が乱立。1919年に鉄道院が「運送扱人公認規程」を制定・実施した後、公認運送店を合同した会社を日通が買収し、その函館支店となりました。

こちらは函館港に入港していたNSユナイテッド内航海運の「きぼう」。東京電力広野火力発電所6号機の再開に伴う、石炭灰輸送量の増加に対応するため、専用運搬船として建造されたそうです。

これから出荷されると思われる木材が山となっていました。ペリーが「世界で最も美しく安全な港」と評した箱館。最盛期の1930年には約6万隻の船舶が入港したそうですが、現在その面影はありません。
箱館の発展と高田屋嘉兵衛
天然の良港「箱館」に最初に目を付け、発展の礎を築いたとされる人物が高田屋嘉兵衛です。

「幕府が蝦夷地を直轄した場合、東蝦夷地の豊富な漁獲物は、自然とここに集まるだろう」と考えていた嘉兵衛。その予想は的中し、嘉兵衛が箱館を根拠地としたのとほぼ同時期に、幕府は松前藩が統治していた東蝦夷地を直轄地とします(1799年)。1802年に蝦夷奉行(同年に箱館奉行と改称)を設置し、その翌年には現在の元町公園に箱館奉行所を設置しました。
■ 参考:1

幕府が東蝦夷地を直轄地とした背景にあるのは、ロシアの南下政策です。蝦夷地での接触が避けられないものとなり、幕府が外交上の問題に直接関われる体制を作る必要がありました。嘉兵衛も、北海道の漁場を開拓し、幕府の蝦夷地経営を助ける一方で、良好な日露関係を築くよう尽力します。
■ 参考:高田屋嘉兵衛と北海道開拓

しかし、幕府は財政難の問題と松前藩からの要請により、1821年に松前藩が蝦夷地に戻るとと、嘉兵衛も密貿易の嫌疑を受けて没落。火の消えたような淋しい町となっていたところに、ペリー艦隊が来航し、箱館は開港都市として再び賑わいを見せることとなります。
函館と漁業
明治時代になると「蝦夷地」は「北海道」となり、「箱館」も「函館」と改められました。

函館駅が開業した翌年、1908年に青函連絡船が開業すると、函館は本州と北海道を結ぶ交通の要衝となり、経済・文化の中心地として発展。また、1907年の日露漁業協約により、カムチャツカやオホーツク海沿岸の漁区が拡大され、北洋漁業も活発になりました。小規模漁業会社の吸収合併により、1933年に設立された日魯漁業会社は、世界一の漁業会社になったこともあったそうです。

物資の仕入れ補給、漁区からの帰港後の流通等根拠地、策源地としての函館港は大いに繁栄。関連企業である魚類の加工、倉庫、流通機構の会社も設立され、その恩恵を受ける人々は市全体の過半数に達したとされています。
■ 参考:2

現在の函館市では「医療・福祉」に従事している人の割合が最も高くなっていますが、「卸売業、小売業」に従事している人が多いのは、歴史の名残でしょうか。

なお、有名な観光地・金森赤レンガ倉庫が出来たのは1800年代後半のこと。やはり、開港以降に整備された物流の仕組みが、函館の漁業発展を後押ししたのかもしれません。
■ 参考:金森赤レンガ倉庫を観光
開港都市・箱館の歴史
ということで、函館港フェリーターミナルから1時間半ほど歩いて、「ペリー提督来航記念碑」に到着しました。

安政元年4月15日(1854年)、アメリカのマセドニアン・ヴァンダリア・サウザンプトンの3艦が箱館に入港。続いて4月21日にペリー提督が乗るポーハタンとミシシッピーがやって来ました。箱館の人々は異国船の見物、箱館港の船舶の出入、馬の箱館出入その他各種行事等の制限や禁止がされ、店を閉じ、息を殺しているような状態だったそうです。
■ 参考:3

ペリーは松前藩と交渉を行うとともに、水や欠乏品を補給。さらに、箱館港を調べて海図を作成する他、地引網を掛けて魚や貝類、カニなどを獲り、生物の調査も行いました。この記念碑はペリー来航150周年を記念し、2002年に設置されたそうです。ちなみに、ペリー広場の裏手には、函館奉行所が置かれた元町公園があります。

よく見ると、ペリーが手にしている帽子の下のあたりのボタンがひとつありません。これは箱館へ入港する前に、下田(静岡県)で物資の代金を支払う代わりに、服の金ボタンをひとつ渡したからと言われています。

ペリーが箱館を去った翌月、幕府は箱館奉行所を34年ぶりに復活。また、箱館には各国の領事館が置かれたため、箱館奉行所が外国との重要な窓口となりました。しかし、かつてと同じ場所に設置された奉行所は、箱館港に出入りする外国の軍艦からも、箱館山からもよく見える状態だったため、移転が検討されることとなります。

その移転先に選ばれたのが現在の「五稜郭」です。1857年から工事が始まり、1864年に竣工すると、奉行所は箱館山のふもとから五稜郭へと移転。その後、五稜郭は蝦夷地における政治的中心になったのです。
■ 参考:4
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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