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今回は「2023年 開国の歴史を辿る旅」その8をお届けします。
★ 前回の記事は こちら ★
下田を歩いて観光~ペリー来航の歴史を知る~
2023年7月15日、静岡県下田市にあるペリー艦隊来航記念碑にやって来ました。

嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に締結された日米和親条約で下田の開港が決定。3月18日から21日にかけて、ペリー艦隊が下田に順次来航しました。
■ 参考:日米和親条約締結までの流れ

こちらの案内板によると、外洋と接近している下田港は、船が出入りするのに安全かつ便利で、ペリーが要求していた点を完全に満たしていたそうです。

こちらの案内板には、ペリー艦隊を構成する7隻の船の停泊図が書かれていますが、ペリーが乗っていたとされる黒船「サスケハナ号」の名前がありません。
サスケハナ号は下田に来航していない?

下田市のホームページによると、横浜に来たペリー艦隊9隻のうち、サスケハナ号は中国へ、サラトガ号はアメリカ本国へ向かったため、下田に来航したのは7隻だったとのこと。その際、ペリーは「ポーハタン号」に乗っていました。

つまり、下田駅前にサスケハナ号のレプリカがあったり、下田港に「サスケハナ号」という名の遊覧船が運航していたりもしますが、当時サスケハナ号は下田に来航していないのです。

また、マセドニアン号だけは他の6隻よりも遅れて来航しています。この船は食糧調達のために小笠原へ向かっていました。当時の日本では牛や豚肉を食べる習慣がなく、入手も難しかったため、マセドニアン号は小笠原でウミガメの肉を調達してから下田にやって来たのです。
■ 参考:1
■ 参考:小笠原では今もウミガメを食べることが出来ます

こちらは、ペリー艦隊来航記念碑に設置されている「日米友好の灯」。ペリーの出生地で、下田市と姉妹都市になっているニューポート市から、2003年に行われた「ニューポート黒船祭」の祝砲の火種が空輸されました。

また、日米交流150周年を記念して、ジョージ・ブッシュ大統領から下田市へのメッセージも刻まれています。

ペリー艦隊来航記念碑は下田市を代表する観光地になっているようで、大型バス専用の駐車場もありました。
日米交流を象徴するスポット 下田公園
続いて訪れたのは下田公園。公園へと入っていく道は、ペリー艦隊来航記念碑から歩いてすぐの場所にあります。

入口には「下田城址」という石碑もありました。下田城は、豊臣秀吉が九州平定を終えて天下統一を進める中、後北条氏が秀吉との対決に備え、南伊豆防衛の拠点として築城した、伊豆半島最大規模の山城だったと言われています。
■ 参考:2

入ってすぐの場所に、海上保安庁の巡視船「まつうら」の錨が吊るされていました。錨横にあった案内板によると『1960年12月進水ー1986年10月16日退役』ということですが、この巡視船についての情報はネットを調べても出てきません。詳細は不明です。

下田公園の年表がありました。公園として整備されたのは明治時代(1901年)。1934年という戦前の時代に第1回黒船祭が開催されています。太平洋戦争が始まる1941年から戦後の1946年までは中断された黒船祭ですが、1947年には再開され、2025年は86回目の開催となりました。

下田公園は黒船祭の式典メイン会場となっている他、諸々の石碑なども置かれており、日米交流を象徴するスポットとなっています。

こちらは1979年の東京サミットで来日中に下田を訪れた、第39代アメリカ大統領ジミー・カーター氏の来訪記念碑。

そしてこちらが、1954年に下田の開港100周年を記念して作られた開国記念碑。碑の中央に刻まれている「開国記念碑」の文字は当時の内閣総理大臣・吉田茂によるもの、右にはペリー、左にはハリスのレリーフ像と2人の言葉が刻まれています。

「余は平和の使節として此の地に来れり」(ペリー)
「私の使命はあらゆる点で友好的なものであった」(ハリス)
ペリーの言葉を選んだのは戦後アメリカの連合国軍最高司令官だったマッカーサー元帥、ハリスの言葉は駐日政治顧問官ウィリアム・J・シーボルト(マッカーサーの外交担当の側近)が選んだものです。
■ 参考:3

こちらは村松春水の石碑。ハリスに3日間だけ仕えた斎藤きちに取材し、『実話唐人お吉』という小説を発表(1927年)した人物です。1930年には、同作を原作とした映画も公開されています。

こちらは下岡蓮杖(1823年~1914年)の像と石碑。日本の写真師の開祖とされる人物です。写真の他、牛乳搾取業、京浜間乗合馬車の開設、石版印刷等他方面に活躍し、明治日本の近代化に貢献したと紹介されています。
旧澤村邸

下田公園のすぐ隣にある旧澤村邸は、下田市が保存・修復を行い、休憩所として無料開放している施設です。天明年間(1781年~1789年)から下田で造船業を営んでいた澤村家。澤村造船所を発展させ、1898年に「下田船渠(下田ドック)」を創業した澤村久右衛門が、1915年にこの邸宅を建てました。

ちなみに、下田ドックは長年にわたり伊豆半島の南端で地域産業の中核となっていたようですが、産業構造の変化により徐々に衰退。1987年の株主総会決議で、創業90年の歴史に終止符が打たれました。
■ 参考:4

建物の外壁には「なまこ壁」が施されています。これは壁面に平瓦を貼り、その継ぎ目(目地)に漆喰をかまぼこ型に盛り上げて塗る工法で、盛り上がった部分の形が海の生物「なまこ」に似ていることから、この名が付けられたとのこと。

近くにはなまこ壁の建物に入ったカラオケもありました。なお、なまこ壁は下田ならではのものではなく、Wikipediaでは「日本伝統の壁塗りの様式の一つ」と紹介されています。幕末から大正時代にかけて全国で見られたようですが、現在はその数が少なくなっているようです。
下田港と犬走島
40分ほどかけてペリー艦隊来航記念碑~下田公園の周辺を散策。せっかくなので、近くにある神新汽船の下田港にも行ってみます。

こちらは旧澤村邸のそばにあった「1829年製 30ポンド カロネード」。案内板はなく、ネットを調べても全く情報が出てきません。鎖国中に製造されたものなのでオランダ製?国産?下田との関係も不明です。

こちらは「あぜりあ丸のプロペラ」。あぜりあ丸は1988年から2014年までの間、下田と神津島・式根島・新島・利島を運航してきた貨客船。下田市と伊豆諸島の経済交流を記念し、引退した船のプロペラが置かれているそうです。

現在はフェリーあぜりあが同航路を運航しています。今回は船には乗りませんが…

窓口で御船印をゲットしました。

そして、下田港の先にある犬走島に到着。島は桟橋で繋がっており、多くの釣り人がいますが、『立入禁止』の看板があるので、島に渡ることは出来ません。

横浜で締結した日米和親条約では、細かい点がほとんど決められていませんでした。下田に上陸したペリーは早速日本側と交渉に入り、10日間にわたる協議の結果、1854年6月17日(嘉永7年5月22日)、日米下田条約【日米和親条約付則13ヶ条】を締結。
■ 参考:5

アメリカ人は犬走島を中心として、周辺七里内(約28km)の遊歩権を与えられ、下田の街中を自由に歩くことが出来るようになりました。次回は日米下田条約が締結された了仙寺周辺を観光します。
■ 参考:6
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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