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今回は「雪を見に行く旅 2022」その3をお届けします。
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越後湯沢駅 ぽんしゅ館へ
2022年12月24日、雪景色を見るため、日本一の豪雪路線・只見線が出る小出駅(新潟県)を目指しています。
大雪で水上駅ー越後湯沢駅間の上越線が終日運休となっていたため、上毛高原駅から新幹線で越後湯沢駅にやって来ました。
上越新幹線も雪の影響で遅れていましたが、越後湯沢駅前はそれほど雪が多くなさそうです。
越後湯沢駅がある湯沢町内のスキー場も積雪が少ないようで、まだオープン前の状態となっていました。ここからは再び上越線に乗り換えて、小出駅まで移動します。
次の電車まで1時間以上あったので、越後湯沢駅の改札を出た場所にあるぽんしゅ館へやって来ました。「ぽん酒」とは「にっぽん酒」、つまり日本酒のこと。ここには新潟県内にある全蔵のお酒120種以上(ワインもある)の試飲を体験することが出来ます。
受付で500円を支払うと、こちらのお猪口と5枚のコインを渡されます。
各お酒に必要なコインの枚数が設定されており、コインを支払うとお猪口一杯のお酒がいただけるという仕組みです。コイン1枚だけで飲めるお酒も多いので、500円で最大5種類の試飲が楽しめます。
新潟県は日本酒の酒蔵数が日本一というだけあって、バラエティが豊富。県内で最も古い酒蔵・吉乃川の創業は1548年。戦国時代から酒造りを行っています。日本酒はお米を原料とすることから、『新潟はお米が美味しいから日本酒も盛ん』と思われがちですが、歴史を辿ると少々事情が異なります。
新潟県とお米と日本酒の歴史
新潟県のホームページによると、収穫量が多く品質もよい品種(=コシヒカリの親「農林1号」)が生み出されたのは1906年のことで、それ以前の新潟県のお米はあまり質が良くなかったそうです。
現在の米どころ・越後平野(新潟平野)は、昔から信濃川や阿賀野川の洪水の影響を受け、水がなかなか引かず、沼や湿原が多かったと言われています。腰まで水に浸かりながら農作業をしたり、泥水のせいで米が実らなかったりと、新潟県での米生産はなかなか大変だったようです。
江戸時代以降、放水路や排水路が掘られ、湿地は干拓によって農地に変わり、さらに一部は住宅地へと変わっていきました。現在のような形の田んぼが新潟県に出来たのは、大河津分水路が完成した1931年以降のことです。
1931年は、先ほどご紹介した「農林1号」が開発された年でもあります。質のいいお米と、そのお米を育てる田んぼが整ったことで、ようやく新潟県で美味しいお米が収穫出来るようになったとも言えるでしょう。
1548年(室町時代)に吉乃川酒造が創業してから1800年(江戸時代)までの約250年間で、新潟県内には11の酒造が出来ました。ちなみに江戸時代、日本酒生産の中心は灘(現在の神戸市~西宮市)。灘五郷酒造組合のホームページによると、灘では1655年~1736年に創業し今日に至る酒造家が多いそうです。
兵庫県西部の播磨平野で収穫されるお米&当時の港・兵庫津に運ばれてくるお米と、六甲山系の水を生かして完成したお酒は、船で江戸へ運ばれました。1772年、近畿地方酒造業者の組合(株仲間)が結成され、日本酒の営業を独占することが幕府によって公認されました。江戸時代後期、灘は江戸の酒の需要の8割を供給したと言われています。
1841年、天保の改革により株仲間解散令(物価高騰の原因が株仲間にあるとされた)が出されました。1872年、明治政府は一定の条件を満たした場合、誰でも酒造業を始めることが出来るように制度を改正。これをきっかけに新潟県にも新しい酒蔵が次々と創業します。
1890年代には新たに10の酒蔵が創業しています。この背景には制度の改正だけでなく、以下の点なども考えられます。
- 日本酒向け一升瓶の登場(1886年)
- 新潟~長野~東京間で信越本線が全通(1893年)
- 日清戦争(1994年)による特需と飲酒習慣の普及
- 工場に蒸気力が導入される
いずれにしても、こうして歴史を辿ると、新潟県ではお米が美味しいから日本酒も発展したというよりも、『お米が美味しくなったから、日本酒にもブランド価値が付いた』と言えるでしょう。
温泉とお酒のある宿場町 越後湯沢
越後湯沢駅がある湯沢町にも、1855年(江戸時代)創業の白瀧酒造があります。
白瀧酒造もまた、三国街道を行き交う旅人の疲れを癒す1杯から始まったそうです。しかし、地図で越後湯沢の場所を確認すると、改めて山奥にあることが分かります。そもそもなぜこの山奥に街道が作られ、人々の往来があったのでしょうか。
そのきっかけを作ったのは、戦国時代の武将・上杉謙信でした。越後国(現在の新潟県)を統一した謙信は、勢力拡大を図るため、北陸地方や関東地方へ度々出兵したそうです。新潟から関東へ向かうための道として整備されたのが、三国峠と三国街道です。
もう一度地図を見ると、新潟市から湯沢町までは信濃川と魚野川(源流は谷川岳)が通り、川沿いは周囲より土地が低くなっています(それゆえ、度々洪水に悩まされ、稲作にも苦労を強いられた)。川沿いは歩きやすいだけでなく、船を使うことも出来ます。
越後湯沢に到着してからは、どのように谷川岳を越えるかがポイントです。現在も国道17号線として利用されている三国街道は、谷川岳を避けて猿ヶ京温泉に至る経路。猿ヶ京温泉付近には「赤谷川」という利根川へ注ぐ川が流れています。
つまり、頑張って三国峠を越えさえすれば、川の地形や水運を利用して新潟と東京を行き来することが出来るようになるのです。江戸時代になると参勤交代や佐渡金銀山の開発が始まり、三国街道が本格的に活用されるようになりました。
猿ヶ京は温泉、越後湯沢は温泉と日本酒のある宿場町として発展し、峠越えた人々、これから峠を越える人々の疲れを癒したのでした。ちなみに、越後湯沢の温泉は鎌倉時代に発見され、川端康成の小説「雪国」の舞台にもなっています。
最後は日本酒ではなくワイン(コイン2枚)を試飲して終了。この時は3種類だけワインがありました。ぽんしゅ館は試飲だけでなく、日本酒の販売もあるので、気に入ったお酒をお土産に買うことも出来ます。
酒風呂に続いて、こちらは温泉珈琲。他にも駅ナカグルメがあり、お酒も飲めて、お風呂もあって、予想以上に色々と楽しめる駅でした。1時間ほど滞在しましたが、今回の旅はここからがメイン。只見線に乗るため、小出駅へ移動します。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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