福岡 博多湾の有人島・能古島を歩く日帰り観光!海運で栄えた島の歴史と産業|2023 旅行記

島旅

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今回は「2023年 福岡・能古島旅行記」をお届けします。

福岡の有人島へ

2023年1月1日、元旦の沖縄・那覇空港へやって来ました。

季節を忘れさせるような暖かさですが、空港の入口に置かれていた門松としめ縄が、お正月であることを実感させてくれます。

そんなこの日の目的地は福岡空港

9時40分発のPeach MM282便で約1時間45分のフライトです。

■ 参考:那覇空港ー福岡空港 飛行機から見える景色

福岡空港からは地下鉄に乗り、約10分(260円)で中洲川端駅に到着。

ここから歩いて博多ふ頭へ向かい、午後は日帰りで福岡市の離島・玄海島へ渡る予定でしたが…

博多ふ頭の券売所に掲載されていたのは、玄海島のホームページには無かった【年末年始運航のお知らせ】。通常よりも大幅に減便されており、博多発の午後便は16時30分発だけとなっていました。

この船に乗ってしまうと日帰りは出来ません。玄海島へ渡るのは諦めて、福岡市内にある別の有人島へ渡ることにします。

博多湾に浮かぶ能古島を日帰りで観光

ということで、もう一度地下鉄に揺られて約15分(300円)、姪浜(めいのはま)駅にやって来ました。ここから向かうのは能古島(のこのしま)です。

船が出ている姪浜港までは姪浜駅から約1.5km、20分ほど歩きます。

こちらが姪浜旅客待合所。

ここからは能古島だけでなく、同じく福岡市に属する有人島・小呂島(おろのしま)へ渡ることも出来ます。

能古島までの運賃は往復460円。

姪浜港から見た能古島

能古島と姪浜港は直線距離で約2.5kmしか離れておらず、船の所要時間は10分。政令指定都市の福岡市に属し、本土にもこれだけ近いからか、能古島は離島振興法の対象になっていません

船の時刻表を見ても、本土との往来が活発であることが伺えます。正確なデータは見つかりませんでしたが、福岡県民には馴染みがあり、年間10万人以上の観光客が訪れているようです。

■ 参考:福岡離島の認知度についての調査

15時15分発の『レインボーのこ』に乗船。

帰りに撮影

船内はこんな感じ。元旦の夕方ということもあって、往復とも乗客はほとんどいませんでした。

そして、あっという間に能古島上陸。暗くなるまでの約2時間、島を歩いて観光します。

能古島の由来と歴史

ここから島で撮影した写真と共に、能古島についてご紹介します。

こちらは集落にある白髭神社。案内板には「神功天皇が住吉の神霊を残した島なので『残島』になった」という地名の由来が書かれていました。

島の歴史は古く、早田古墳からは西暦600年頃に作られた土器が出土しているそうです。

この案内板には西暦600年(7世紀)頃の『防人』について紹介する案内板もありました。どうやら万葉集に登場する「也良崎」が能古島の最北端に位置し、防人や烽が置かれた所であると言われているそうです。

■ 参考:日本最強の城・金田城を築いたのも防人たち

能古島から見た博多方面

中国東北部に住んでいた女真(ツングース系の半農半狩猟民族)が50余隻で対馬・壱岐に襲来した1019年4月の「刀伊の入冦」、元(モンゴル帝国)軍が侵攻してきた1281年の「元寇(弘安の役)」でも、能古島には敵軍が上陸し、大きな被害を受けたとされています。

こうした島の歴史を知ることが出来るのが、港から歩いて10分ほどの場所にある能古博物館。しかし、2月下旬まで冬季休館中で、この時は見学することが出来ず。

海運で栄えた島の産業

能古博物館のホームページによると、能古島が最も輝いていたのは「五ヶ浦廻船」の時代とされています。

集落の様子

江戸時代、河村瑞賢が東廻り航路と西廻り航路を開発。これにより、従来からある江戸-大坂間の航路とあわせて、全国の各地が「将軍の御膝元・江戸」と「天下の台所・大坂」とが海運で結ばれました。その結果、幕府や諸藩の年貢米や特産物は江戸と大坂に集まり、大坂からは様々な工業製品が地方へ運ばれるという、経済の仕組みが成り立っていたようです。

■ 参考:東廻り航路と西廻り航路について

姪浜港にて

それと同時に、大量の荷を積み、長距離を帆だけで走る「弁才船(千石船)」という沿岸航行専門の船が登場。米500石積(1,500俵)の小型のものから2,000石積の巨大なものまで建造され、1700年代には当時の海運の主役となりました。どうやら能古島の船乗りたちは、巨大な弁才船に乗り込んで、日本全国を舞台に活躍していたようです。

集落の様子

当時、福岡藩では漁業や海運業など、海を舞台にして生活を営む沿岸の村々を「浦」と呼び、浦奉行を置いて支配しました。約40あった浦の中で、特に能古島・浜崎・今津・宮浦・唐泊の5つの浦の船乗りたちは、福岡藩の年貢米を瀬戸内海経由で大坂や江戸などに運び、さらに日本各地の産物を積んで、日本海や太平洋岸の長距離の輸送に活躍。彼らの廻船は「五ケ浦廻船」と呼ばれたそうです。

集落の様子

藩により5つの浦の廻船を統括する「廻船頭取」も置かれ、最も栄えていた江戸時代の中頃には50隻もの廻船があったと言われています。当時の廻船業(=海運業)は莫大な利益が上がる仕事だったようで、廻船業が無くなる明治時代まで、能古島では漁業が行われなかったそうです。

2020年 国勢調査より

こちらが現在の能古島の産業構成。現在も漁業従事者の割合は低く、「卸売業、小売業」に従事する人が最も多くなっています。

ただ、港には漁船と思われる小さな船が多く停泊しており、兼業などで漁業に携わる方は国勢調査の数字以上に多いのかもしれません。

また、興味深いのがこちら。「呪い返し師—塩子誕生」は幸福の科学が作成した映画で、そのポスターが多くの家に貼られていました。廻船業は命の危険を伴う仕事だったため、昔から船乗り達は信仰が厚く、今もその名残があるのでしょう。

■ 参考:1

■ 参考:2

漁業よりも農業が盛ん

島から本土へ通勤していたり、本土から島へ通勤している人もいるはずなので、国勢調査の数字はあくまで参考ですが、現在の能古島は漁業よりも農業が盛んです。

天神に本社がある食品メーカー・株式会社ピエトロの自社農場「のこベジファーム」もあり、その面積は東京ドーム15個分にもなるそうです。

看板などはありませんが、恐らくこの段々畑やビニールハウスはのこベジファームの一部でしょう。ここで育った作物は、レストランで提供されたり、商品の原材料に使われたりしているそうです。

■ 参考:3

また歩いていると、写真のような柑橘系の果実が生った木々が多く見られました。

島のゆるキャラ「のっこくん」は、甘夏みかんがモチーフになっています。

能古甘夏は貯蔵保存をせず、樹成り(完熟するまで収穫しない)のまま春を待ち、もぎたてを出荷するため、香りがよく糖度も高くなるようです。

レモンも実っていました。

しかし、こうした木々を倒したり、土を掘り返してしまうのがイノシシ。畑を囲む柵もイノシシ対策です。能古島では毎年200頭のイノシシが捕獲され、深刻な農業被害が出ていることがニュースにもなっています。

こちらは人間に対する注意書き。山芋掘りや竹の子採り等の行為は島内では厳禁されています。発見しだい駐在所等へ通報され処罰されるとのこと。能古島には駐在所もあります。

2時間で島を歩きました

島の人口は約600人。信号機はありません。

保育園から小中学校までがあり、高校から島を出るようです。

商店もありました。ただ、人が住んでいるのは港の周辺だけ。その背景には、能古島が福岡市の「市街化調整区域」に指定されていることがあります。

自然や農地を保全するため、能古島では居住者の生活利便施設や生産者が行う店舗等以外は建築出来ないなどの規制がありました。

自然が多く残されている

しかし、近年は人口減少や高齢化といった課題を解消するため、市は地域住民の合意のもと、農林水産業や観光業など、地域産業の振興に寄与する「地域産業振興施設」の立地が可能となる規制緩和を行っています。

■ 参考:4

国土地理院地図より

今回私が2時間で歩いたコースは赤線の通り。国土地理院地図では記載のある道を歩きましたが…

そのうちの半分がGoogleMapには掲載されていない道です。能古島の西側には、森の中に約2.6kmの「自然探勝路」が整備されています。

道はこんな感じ。

自転車も注意すれば走れるようです。

さらに、自然探勝路は「自動車での通行にはご注意下さい」ということは、注意すれば自動車も走ることが出来るような道です。なお、港のそばレンタサイクルを借りることは出来ますが、レンタカーはありません。

バスは1時間に1本。タクシー1台もあるようです。

■ 参考:5

ということで、暗くなる前に港へ戻って来ることが出来ました。

17時30分の船に乗り、さらば能古島。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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