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今回は「2022年 トカラ列島旅行記」その4をお届けします。
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口之島を通る北緯30度線の意味
2022年5月15日、トカラ列島最北端の島・口之島の最北端「赤瀬」にやって来ました。
案内看板によると、ここにある巨岩は信仰の対象になっているようで、「琉球列島のニライカナイを浄土とする世界観の延長線上にある」と書かれていました。琉球王国はトカラ列島にも何らかの影響を与えていたのでしょうか。
■ 参考:琉球王国の勢力範囲について
港から島の最北端までの道はこんな感じ。
そこに1本の赤い線が引かれていました。
赤い線の横にあったのは【北緯30度線】と書かれたモニュメント。十島村の歴史において、北緯30度線は非常に重要な意味を持っています。
米軍統治下に置かれた十島村の歴史
こちらは戦後、1946年1月29日に連合国総司令部が日本政府と結んだ『若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書(SCAPIN-677)』。この指令により、北緯30度より北の琉球列島(=屋久島・種子島など)が日本に含まれることとなりました。ポイントは「口之島を除く」という一文です。
覚書の続きを読むと、今度は北緯30度以南は日本に含まれないという文脈で「口之島を含む」と書かれています。1946年2月2日、口之島から南の島々(と伊豆諸島・小笠原諸島)は米軍統治下に置かれることが正式に宣言されたのでした。
口之島・中之島・宝島に軍政府巡査派出所が置かれ、1946年4月からは日本本土との海運・交通を禁止。案内板によると、米軍統治下の口之島は密航・密貿易の拠点となり、鹿児島方面から物資や人を運ぶ「闇船」が来港したそうです。
1951年9月8日、日本がサンフランシスコ平和条約に署名すると、北緯29度以南の南西諸島(奄美・沖縄)と小笠原諸島は米軍の統治下となることが確定。一方、北緯30度から29度の間にあるトカラ列島は本土復帰が決まりました。
サンフランシスコ平和条約が発効される1952年4月28日を前に十島村は本土復帰を果たし(1952年2月4日)、新たに「十島村」と「三島村」が発足(1952年2月10日)。2022年は十島村が本土復帰を果たしてから70周年で、私が乗船したフェリーとしま2にも横断幕が掲げられていました。
その後、奄美群島は1953年12月25日、小笠原諸島は1968年6月26日、沖縄は1972年5月15日に本土へ復帰。私が口之島に上陸した2022年5月15日は、沖縄の本土復帰からちょうど50周年の日でした。
ちなみにサンフランシスコ平和条約以降、米軍統治が法的に認められた奄美・沖縄・小笠原には『特別措置法』が適用されていますが、十島村の島々は他の離島と同じ『離島振興法』。制度的な援助が全く異なるため、「奄美と同じタイミングでの返還がよかった」というような声もあるようです。
フリイ岳展望台を目指して歩く
港の近くまで戻ってきました。ここからは口之島北部にあるフリイ岳を目指して歩きます。
GoogleMapで調べても、港からフリイ岳展望台までの道は出てきませんが、実際は私が加筆した赤い線の場所に道があるのです。
フリイ岳展望台の入口は港と集落を結ぶ道の途中にあります。ここからさらに坂道が続くので、歩くのはなかなかハードです。
歩く人はもちろん車通りもゼロ。
牛はあちこちにいます。
普通に人が住んでいる島を歩いているだけですが、まるでRPGの世界に迷い込んでしまったたのような景色。これが日本最後の秘境と称されるトカラ列島です。
フリイ岳の登山口にはお手洗いがありました。車で来ることが出来るのはここまで。展望台まではもう少し歩きます。
道幅は狭くなりますが、整備されているので登山という感じではありません。しかし、牛の糞が落ちています。この狭い道で牛と出会ってしまったら、どこへ逃げればいいのでしょうか。
牛が出てこないことを祈りながら歩いていると、ついに目の前が草で覆われてしまいました。ただ、行けなくもなさそうなので、草をかき分けながら進みます。
展望台周辺に残る戦跡を見学
登山口から15分ほどで小さな展望台に到着しました。
こちらが標高235mに位置するフリイ岳展望台。展望台の周囲にも牛の糞が散乱しています。
左に見えているのが口之島の最高峰・前岳(628m)。右奥には中之島と諏訪之瀬島も見えています。
そして北側にあるのがトカラ海峡。日本の領海ですが、最近は中国がこの海峡を「国際海峡」と主張し、艦船を航行させたりしているようです。太平洋戦争中、フリイ岳山頂には日本海軍20名程が常駐しており、現在も戦跡が残されています。
こちらは監視哨跡。無線施設や発電設備もあったそうですが、現在は案内看板があるだけ。建物などは残されていません。ここで海と空を見張っていたのでしょうか。
「兵舎跡」も草木が生い茂り、兵舎があった面影はありません。
ここには水タンクがあったようです。
防空壕跡は今も残されていました。写真上部、草の中に木の柵が見えています。十島村にも米軍の空襲はあったようですが、戦時中の島暮らしの様子については情報がほとんど出てきません。
しかし、太平洋戦争の末期の日本本土~沖縄周辺の海域は船がまともに航行出来る状況ではなかったため、物資が入って来ず、島の暮らしは非常に厳しかったことが想像されます。
時刻は15時過ぎ。まだ暗くなるまでは時間がありますが、前日から移動続きで少し疲れたので、宿へ戻ることに。
シャワーを浴びて、仮眠をして19時前、宿の目の前にある西之浜港にやって来ました。残念ながら夕陽を見ることは出来ず。これにて口之島1日目は終了です。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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