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今回は「2022年 天売島・焼尻島旅行記」その3をお届けします。
★前回の記事は こちら ★
日帰り!滞在時間1時間半
2022年8月21日、北海道・焼尻島に上陸しました。

本来は焼尻島に宿泊する計画でしたが、前日に船が欠航した影響で日帰りに変更。滞在時間は約1時間半だけです。

島の周囲は約12km。島を周回する道道255号もありますが、タクシーやバス、レンタカーはなく、レンタサイクルか歩きでの観光となります。半日あれば、自転車や徒歩でも島を1周出来そうですが、アップダウンもあるので、1時間半では難しいでしょう。

どうしようかと思っていたところ、船を下りてすぐに声を掛けていただき、観光タクシーで島を巡ることになりました。

タクシーには5~6名が同乗しツアースタート。皆さん私と同じ船で島に上陸し、同じ船で帰るようなのです。1時間半のツアーで、料金は一人当たり1,400円でした。

出発してすぐに商店の横を通過。2020年の国勢調査によると、焼尻島の人口は171人。そのほとんどが港の周辺で暮らしています。

商店の近くには郵便局もありました。

そして、商店と郵便局の間にあるのが「旧小納家住宅」。小納家は石川県から焼尻に渡り、ニシン漁の他、呉服業や雑貨商を営みながら、郵便・電信局の許可も受けていたそうです。こちらは1900年に建てられ、1977年からは羽幌町焼尻郷土館として開館。道指定有形文化財にも指定されています。
■ 参考:1

港を出発してから5分で建物が無くなりました。

こちらは焼尻島灯台。留萌海上保安部によると、初点灯年月日は1913年2月1日とあるので、100年以上前に作られた灯台です。

どうやら焼尻島には、かなり昔から人が住んでいたようで、先史時代やオホーツク文化(5~9世紀)の遺跡も確認されています。天売島と焼尻島は、オホーツク文化の人々が交易・交流を求めて、サハリンから石狩地方や東北地方北部へ移動する際の中継地点だったという推測もあるそうです。
■ 参考:2
ニシンの島からサフォーク種の島へ
焼尻島では江戸時代以前からアイヌが定住していたとされています。

1786年に場所請負人(各場所の漁業経営を請け負う商人)の栖原角兵衛がニシン漁業に着手。それから戦後まで、焼尻島はニシン漁で栄えました。1807年には61人だった島の人口が、一時期は2,600人を超えたこともあったようです。

しかし、1950年代後半にニシンの漁獲量は激減。その不漁対策として、羽幌町は1962年に焼尻島の漁業者へ羊12頭を貸与し、島で牧場が始まりました。

1966年から牧場は町営となり、1969年にオーストラリアから導入されたのが「サフォーク種」。大型の肉用種として世界各国で飼育されているめん羊で、顔が黒いのが特徴です。

日本海からの潮風が運ぶ塩分やミネラル分が多く含まれた牧草を食べて育つため、肉質が柔らかく、臭みも少なめ。「焼尻ブランド」の羊ラム肉は、2008年に開催された北海道洞爺湖サミットでも提供された他、首都圏の高級レストランでも使用されているそうです。

また、日本海に沿って広がる緑の牧草地帯が、スコットランドの風景に似ているそうで、焼尻島の貴重な観光資源にもなっています。私もこの景色が見たくて、焼尻島を訪れました。
焼尻島の人口と産業
2008年に町が指定管理者制度を導入してからは、民間事業者がめん羊牧場を運営していましたが、2019年からは再び町営となりました。

その背景にあるのは「人手不足」。働き手を確保することが出来ないとして、指定管理者に名乗りを上げる事業者が無かったそうです。

2000年と2020年の人口を比較すると、焼尻島の人口減少率は58.7%。こうした状況なので、町営に戻ってからも当然人手不足は続き、さらには毎年2~3千万円の赤字が発生する状態だったようです。

2020年の国勢調査によると、農業の就業人口は2人。この2人が必ずしも牧場で働いているとは限りません。町の職員が4~5日間、島に出張して対応することもあったようなので、牧場で働いていた方の本業は「公務」だった可能性もあります。

2023年はついに飼育員が1名となり、その飼育員も同年8月で退職が決定。1986年にサフォーク種純潔生産基地の北海道第1号指定を受け、羊の種畜生産基地として重要な役割を担ってきましたが、焼尻島のめん羊牧場は閉鎖・廃業される方針でした。

この方針がリリースされると、道内外から30件を超える問い合わせが町に寄せられ、事業承継の申し出が3件あったそうです。その中から、あべ養鶏場(下川町)の東郷啓祐社長と町が合意。現在は東郷社長が設立した新会社が、牧場を継続しています。
■ 参考:3
■ 参考:4
天の贈り物 オンコの島
牧場の景色を楽しみながら、やって来たのは「オンコの荘」。

オンコは「イチイ」という針葉樹の北海道での呼び名。焼尻島のオンコ原生林は国の天然記念物にも指定されています。

オンコは一般的に高さ15mほどに成長するそうです。しかし、焼尻島のオンコは高さ1.5mほどしかありません。

木の中はこんな感じ。

高さが無い一方で、枝は地を這うように成長しており、その広がりは直径10mを超えるそうです。

こうした形状になったのは、冬に大陸から吹く強い季節風や雪の重さに加えて、若木が木漏れ日を探しながら成長したためとされています。
■ 参考:5

港に到着する船からも、まず目に入るのは「天の贈り物 オンコの島」というキャッチフレーズです。

オンコの他にも、焼尻島ではミズナラを主体にイタヤカエデ、キハダ、シナ、ホウ、ナナカマド、ハンなど約50種類の樹木が確認されています。しかし、かつては森林がほぼ壊滅状態となった時代もあったようです。

栖原角兵衛がニシン漁業に着手してから、ニシン〆粕(肥料として使用された)製造用の薪材を調達するため、木々の伐採が始まったと考えられています。

1876年頃までは広葉樹を中心に樹木が豊富だったようですが、ニシン漁が盛んになるに従って乱伐も加速。1880年に禁伐となってからも度々盗伐が行われ、1888年頃には大木がほぼ切り尽くされました。

厳しい気候条件なども影響し、森林はほぼ壊滅状況。冬の季節風による強風や塩害もあり、森林の回復には時間がかかったそうです。なお、オンコ林は島民が生活用水を確保するため残したとも言われています。
■ 参考:6

焼尻島最西部に位置する「鷹の巣園地」にやって来ました。海の向こうに見えているのは天売島。

焼尻島にあるのは小中学校まで。焼尻高校は1979年に天売高校へ統合されたため、焼尻島の子供たちは天売島か、北海道本土の学校へ通っているのでしょう。

フェリーの船内にあった資料によると、天売高校では毎年、ウニの缶詰を手作りする「ウニ実習」なるものがあるそうです。

「天売学」という、島の観光をいかに盛り上げていくかを考える授業も紹介されていました。

鷹の巣園地は島内最高峰の地(標高94m)。こちらが島内最高峰の地からの景色です。一面の緑が広がっています。

1960年代の離島観光ブームで、多くの観光客が訪れると、焼尻島は深刻な水不足に陥ったようです。これを機に水源林の造成が進められ、今では「緑の島」と言われるほど森林が蘇っています。

なお、天売島と焼尻島の観光客数は一貫して減少傾向。定住人口・交流人口がいずれも減少していることが課題となっています。
観光タクシーで焼尻島を巡った感想

天売島で折り返し、焼尻島へ向かっているフェリーが見えました。この船に乗って帰るので、ツアーはここで終了。港へと戻ります。
移動中はドライバーさんがずっと島のお話をしてくれて…

途中で車を降りて島を歩いたり、サフォークの写真を撮ったりすることも出来て、大変充実した1時間半の滞在となりました。ツアーに参加して良かったです。

レンタサイクルで島を巡っている人もいましたが、アップダウンが激しいので、やはり大変そうに見えました。

港へ到着すると、おろろん2は接岸作業中。

乗船券を購入し、船に乗り込みます。

さらば焼尻島。時刻は11時10分。この日の目的地は東京です。

12時10分、羽幌フェリーターミナルに到着。

船の到着に合わせて出発する羽幌港連絡バスに乗り換え(運賃200円)。

本社ターミナルを12時30分に出発する特急ほぼろ号で札幌に向かいます。

15時半過ぎ、苗穂駅前でバスを降車。ここから鉄道で新千歳空港へ向かい、夜の飛行機で東京に帰りました。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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