最初の英語教師 ラナルド・マクドナルドが鎖国中の日本・焼尻島に上陸した理由|2022 旅行記4

北海道

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今回は「2022年 天売島・焼尻島旅行記」その4をお届けします。

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ラナルド・マクドナルドが焼尻島に上陸した理由

2022年8月21日、北海道・焼尻島を観光タクシーで巡っているとき、気になる案内板を発見しました。

どうやら焼尻島は【ラナルド・マクドナルド 日本最初の上陸地】のようです。ラナルド・マクドナルドが焼尻島に上陸したのは1848年。ということは、日本はまだ鎖国中で、ペリーが浦賀を訪れる5年前のことです。彼はなぜ焼尻島へやって来たのでしょうか。

焼尻島にて

1824年、アメリカ・オレゴン州でチヌーク族の首長の娘(母)とスコットランド人(父)の間に生まれたマクドナルド。1845年(21歳)頃から捕鯨船プリマス号に乗り込み、日本に上陸することを夢見ていました。

焼尻島にて

江戸幕府による異国船打払令もあり、彼が危険を冒してまで日本上陸を夢見た理由は分かりません。マクドナルド自身は、様々な場面で日本上陸の理由を述べているようです。まとめると以下の通り。

  • 持ち前の冒険心を満足させたかった
  • 日本の国をくまなく探検したい野望を持っていた
  • 日本全土を探検して、自分で観察した記録を記事にしたい
  • 教師として雇ってくれるのではないかと期待していた
  • 船員たちの多くが病気にかかっていた
  • 日本語と異本事情を学ぶ機会を逃したくなかった
  • イギリスかアメリカが日本と通商交流する時に、通訳として雇われたい
  • 母方の祖先が日本のあたりから渡来したという言い伝えに惹かれた

ちなみに、彼が10歳の頃、アメリカ西海岸に3人の日本人が漂着したことをきっかけに、日本を知り、興味を持つようになったようです。

捕鯨船で鎖国中の日本へやって来る

商船や捕鯨船が太平洋を行き来していた全盛期、ハワイには各国の船が集まると同時に、情報も集まっていました。そうした情報を収録していたのが『フレンド紙』です。

焼尻島にて

フレンド紙に「クーパー船長日本訪問談」が掲載されたのは1846年のこと。アメリカの捕鯨船マンハッタン号が日本人漂流民22名を乗せて浦賀へ入港し、漂流民らを帰還させたという内容の記事を見て、彼は日本への想いをより強くしたと考えられています。ちなみに、このクーパー船長が、公式に日本を訪れた最初のアメリカ人です。

■ 参考:1

フェリー オロロン2より

プリマス号が日本海に入ったのは1848年3月末のこと。当時の日本海では、鯨がゆっくりと泳いでいて、捕鯨には絶好の穴場として有名だったそうです。3ヶ月間に及ぶ日本海での捕鯨を終え、プリマス号が宗谷海峡経由で捕鯨基地のあるホノルルへ戻るタイミングで、マクドナルドは日本への密入国を試みます。

■ 参考:日本の開国と捕鯨活動

フェリー オロロン2より

どうやらマクドナルドは、この1年近く前から「航海術を教えてもらいたい」、そして「日本の陸地の見える沖合で、帆で航海できる小さなボートで、日本に単身潜入する許可を貰いたい」と船長に願い出ていたそうです。プリマス号のエドワード船長は、最後まで無謀な冒険を止めさせようと説得しましたが、彼は決心を変えようとしなかったとされています。

焼尻島にて

マクドナルド(当時24歳)は単身ボートに乗り込み、焼尻島へ上陸。数日を過ごした後、彼はアイヌの人々に救助される形で利尻島へ上陸しました。ちなみに、彼が焼尻島から利尻島へ移動した理由は不明です。

日本で最初の英語教師となる

マクドナルドは1か月ほど利尻島で拘束された後、さらに宗谷・松前で2か月弱拘束され、最終的に長崎へ移送されました。

焼尻島にて

そして長崎で、座敷牢の中ではあったものの、マクドナルドはオランダ語の通訳者・森山栄之助(後にペリー来航の際の通訳を務める)ら14名に英語を教え、「日本で最初の英語教師」となったのです。当時は多くの外国捕鯨船が日本近海に出没しており、時化による海難事故のため、日本に漂着する外国人が増加。英語による取り調べが急務だったとされています。

■ 参考:2

フェリー オロロン2より

長崎で約7か月を過ごし、マクドナルドが日本を去ったのは1849年4月のこと。彼は晩年も『日本回想記』を著すなど、日本に対する熱い想いを持ち続けていたとされていたようです。彼が日本の開国に少なからず影響を与えたことは、言うまでもありません。

■ 参考:3

■ 参考:4

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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