牛に注意?小値賀島を観光 レンタサイクルで島1周!教会が少ない理由を考察|2017 旅行記2

旅の思い出

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今回は「2017年 九州・沖縄の島を巡る旅」旅行記その2をお届けします。

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小値賀島を観光

2017年11月23日、この日は1日かけて長崎・小値賀島を自転車で観光します。

島の1周は約30km。港にあるおぢかアイランドツーリズムでレンタサイクルを借りました。料金は1日1,000円です。

小値賀島は火山活動によって出来た島。鉄分を多く含む火山岩の砂礫が酸化して出来た、赤い砂のビーチ・赤浜海岸もあります。

他にもいくつか砂浜はありますが、砂が赤いのは赤浜海岸だけ。おぢかアイランドツーリズムのホームページでは、「海底火山の溶岩が流れて作り出したなだらかな小値賀島の地形は比較的平坦」と紹介されていますが、地味なアップダウンが多です。

電動自転車を借りることも出来ましたが、私が選んだのは普通の自転車(ギア付き)だったこともあり、なかなかハードな旅となりました。

さらにこの日は、大陸から吹き付ける冷たい季節風も辛かったです。「風が強かった」というのが、小値賀島で一番印象に残っていることかもしれません。

■参考:季節風とは何か

こちらは「牛の塔」。もともと小値賀島は2つに分かれていましたが、鎌倉時代の埋め立て工事によって1つの島となりました。その工事の際、犠牲になった牛さんたちがこの塔に供養されてるそうです。

ということは、鎌倉時代の小値賀島にはすでに人が住んでおり、牛ともに生活していたことが伺えます。

小値賀島には、後期旧石器時代から人が住んでいたそうです。五島列島における牛飼育の歴史も古く、五島市にある弥生時代の貝塚からは、人骨とともに牛の骨が見つかっており、これが日本最古の家畜牛とも言われています。

牛に注意?レンタサイクルで島1周!

小値賀島では今も牛と人が共に暮らしており、サイクリングをするときも牛に注意しなければなりません

放牧場から抜け出した牛が、道路を歩いていることもあるそうで、「牛に注意」の標識があちこちにあります。

標識のデザインも色々とあるので面白いです。

かつては、農耕の手伝いなどをする「役牛」として活躍していましたが、現在は肉用牛として島の経済を支えています。

2020年度、小値賀町の農業産出額の3分の2を占めるのが肉用牛です。これらは「繁殖牛」と呼ばれる子牛で、出荷後に、松坂牛や神戸牛などの和牛となります。

島の人口と産業

2021年4月現在の飼養頭数が1,248頭であるのに対し、2020年国勢調査における小値賀町の人口は2,288人。牛よりも人の数の方が多い状態ですが、人口は毎年100人ペースで減少しており、牛の数が人の数を上回るのも時間の問題でしょう。

人口減少と同時に高齢化も進んでいます。しかし、野崎島が無人化したのは、高齢化以前に現金収入が必要だったことを忘れてはいけません。今の日本で完全な時給自足は出来ず、「税金」を払うために現金が必要です。

こちらは2020年国勢調査における小値賀町の産業別人口。1次産業(生産)と、島外への販売(小売・卸売)がメインの収入源であることが分かります。ちなみに畜産は農業に分類されます。

島の中核産業は漁業。近海で採れるブリ・アジ・イサキなどの一本釣りが中心で、港には漁船がずらりと並んでいます。

こちらは小値賀島に2つしかない信号機の1つ。コンビニやスーパー、商業施設はありません。

教会が少ない理由を考察

小値賀島は大小17の島々からなる小値賀諸島の島のひとつです。

小値賀島と斑島(まだらじま)は橋で繋がっているため、自転車のまま渡ることが出来ます。

この島の名物は、日本一の規模を誇るポットホール(玉石甌穴)。国の天然記念物に指定されています。

深さ3m口径2mの穴の中に、直径50cmの玉石があり、地元の人は「玉石様」として信仰しているそうです。近くには「玉石大明神」と書かれた白い鳥居がありますが、ポットホールは見つけることが出来ませんでした。

小値賀島へ戻り、こちらの鳥居は地ノ神嶋神社。揚子江の河口に近い蘇州方面へ向かう遣唐使の航海安全を祈って、704年に創建されたと言われています。

こちらの鳥居は、対岸に見えている野崎島・沖ノ神嶋神社と向かい合う形になっているそうです。

中国大陸と日本を往来する船の寄港地となった小値賀島。江戸時代以降は捕鯨基地として栄えるなど、色々な人が出入りしてきた歴史があります。

■参考:江戸時代の捕鯨活動について

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こちらはフォトジェニックな写真が撮ることが出来る姫の松原。江戸時代、農作物を海風から守るために植林された小松が起源とされ、約450mの松並木は「日本の名松百選」「日本街路樹百選」に選ばれています。

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江戸時代の小値賀島には人の営みがあり、さらに異国の文化なども入りやすい環境でしたが、五島列島の他の島に比べ教会の数が少なめ。世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産はひとつもありません

ネットを調べても小値賀島に教会が少ない理由は分かりませんでしたが、以下の理由が考えられます。

  • 小値賀島が平戸藩に属していた
  • 18世紀までの弾圧でキリスト教が一掃されていた
  • それなりに人が住んでいた(信仰がバレる可能性が高い)

野崎島は島の南端が中通島(五島藩)は600mしか離れておらず、さらにほとんど人が住んでいなかったため、五島藩からの潜伏キリシタンが移り住みましたが、わざわざ小値賀島まで移動する理由がありません。

森の中にあった鳥居

五島列島にある教会の多くは、大日本帝国憲法(1889年)で国民に信仰の自由が認められてから建設されています。キリシタン人口が少なければ、教会の数が少なくなるのは当然です。

令和元年長崎県観光統計データによると、五島市や新上五島町を訪れる人の数に比べて、小値賀島を訪れる観光客は10万人以上少ないです。さらに、長崎県内全市町村別で比べても、小値賀町は観光客が最も少ない町となっています。

小値賀空港もありますが、定期便の運航はありません。五島列島を訪れる人の多くは「教会巡り」を楽しみにしているため、教会が少ない小値賀島へ足を運ぶ人は少ないのでしょう。

小値賀島の観光はこれにて終了!この日はお隣の中通島(新上五島町)にある『五島バックパッカーズ ぽれ』に宿泊するため、18時発の高速船に乗船。

中通島・有川港までは約1時間。船にはほとんど人が乗っておらず、宿の宿泊者も私だけ。夕食は前日に続き、相部屋形式の宿で1人、持参していたカップ麺を食べました。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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