日本一の豪雪路線・飯山線開業の歴史と沿線地域における産業発展の過程|2022 旅行記4

観光名人ブログ

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今回は「雪を見に行く旅 2022」その4をお届けします。

★前回の記事は こちら

物流と交通の拠点・越後川口へ

2022年12月24日、日本有数の豪雪地帯を走る只見線に乗るため、青春18きっぷと新幹線を利用し、越後湯沢駅までやって来ました。

こちらの上越線・長岡行きで小出駅に向かい、只見線に乗り換えて、車窓に広がる雪景色を楽しみながら終点の福島県・会津若松駅へ。そこからは磐越西線→東北本線と乗り継いで、この日のうちに東京へ戻る計画でしたが…

JR東日本 運行情報より

この日は各地で大雪となっており、東京を出発した時点で、只見線は午前中の運転を取りやめて、午後から運転再開の予定でしたが、そのまま終日運休となってしまいました

新潟県内を走る鉄道がもれなく雪の影響を受けており、「ここからどうしようか」と思っていたところ、唯一平常運転となっていたのが飯山線。ということで、ここからは予定を変更し、飯山線の始発駅・越後川口駅へ向かいます。

越後川口駅で飯山線に乗り換えて、車窓に広がる雪景色を楽しみながら終点の長野駅へ。そこから中央線を乗り継ぐと、この日のうちに東京へ戻ることが出来ます。

水上~越後湯沢間は上越線も運転を見合わせていましたが、越後湯沢から長岡方面は写真の通り、雪も少なく、時刻表通り運行されていました。

こちらは駅に直結している上越国際スキー場。一部では地面が露出しており、人もまばらですが、営業はしているようです。

小出駅に到着。向こうのホームには、本来乗車する予定だった只見線が止まっています。まだ雪は多くありませんが、この先は豪雪に慣れているでも路線でも、太刀打ち出来ないほどの雪が降っているのでしょうか。

約1時間で越後川口駅に到着。越後川口(旧川口町)は長岡市の飛び地。現在は間に小千谷市がありますが、将来的には小千谷市も長岡市と合併し、40万人都市を実現する構想があるようです。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は IMG_7148-1024x768.jpg です

誰もいない駅の待合室ですが、暖房がしっかり効いています。ただ、飯山線の発車まで1時間ここにいるのはもったいないので、一旦改札の外へ出て、この町の歴史を知ことが出来る場所へと向かいます。

やって来たのは、越後川口駅から10分ほど歩いた場所にある、谷川岳から流れる魚野川(写真左)と、長野方面から流れる信濃川(写真奥)の合流地点です。

国道17号線で東京まで260km

江戸時代から三国街道の宿場町として発展した越後川口。陸上交通が発達する以前は、川舟による運送が盛んに行われていたため、2つの川が合流する越後川口は水上交通や物資輸送の拠点にもなりました。

現在も越後川口は、川と鉄道だけでなく、上越新幹線、国道17号線、関越自動車道が通る交通の要衝となっています。2004年、当時の川口町を震源とする中越大震災が発生した際は、新潟県内と関東方面を結ぶ物流と交通が完全に止まったそうです。

奥に見えているのは、信濃川を横切る関越自動車道

1917年、飯山線の前身となる私鉄・飯山鉄道が豊野駅~飯山駅間で開業。この路線が信濃川に沿って新潟方面へ延伸されると、船が運んでいた物資や人を、鉄道が運ぶようになりました。つまり、これから乗車する飯山線は、信濃川・千曲川にあった水運の代わりの役割を果たしているのです。

13時11分発、戸狩野沢温泉行きの列車に乗車。到着した列車には地元の方々が多く乗っていましたが、越後川口駅から乗車したのは私1人でした。

越後川口駅を発車すると、間もなく列車は大きく右にカーブ。信濃川を渡り、ここから飯山線はこの川沿いを走ります。戸狩野沢温泉駅で列車を乗り換えて、長野駅まで約3時間の旅です。

日本一の豪雪路線・飯山線

只見線と並んで『日本一の豪雪路線』と紹介されることが多い飯山線。

飯山線も、冬は雪の影響で運休になることが多い路線ですが、今のところ平常通りの運行。大荒れの天気予報とは異なり、雪は降っておらず、たまに青空も見えています。ここからさらに雪が深まっていくのでしょうか。

少し雪の量が増えた?

飯山線が日本一の豪雪路線と評される一番の理由は、途中にある森宮野原駅で、JR(国鉄)の駅での最高積雪7.85mを記録したことがあるからです。ただこれは1945年2月の話。

気象庁ホームページより作成

森宮野原駅(標高290m)の積雪データはありませんが、近くの津南町(駅の標高は210m)におけるここ30年の最深積雪は419cm(2022年)と、7m級の雪は降っていません。それでも平均的な数字を比べると、只見線よりも飯山線沿線の方が、雪の量多いと分かります。

十日町駅に到着。江戸時代以降、十日町は高級麻織物「越後縮(えちごちぢみ)」の産地として成長した町です。越後縮は夏の高級着物として、庶民向けに需要が増大しましたが、天明期(1781~1788)をピークとして、養蚕&絹織物へとシフトしていきました。

■参考 1

2020年国勢調査より

昔からの名残か、現在も十日町市は製造業従事者が多いです。また、海に面してはいませんが、漁業従事者が2名おり、市内を流れる信濃川で漁業が行われていることも伺えます。

この橋を渡ると、飯山線は十日町市から津南町へ

江戸時代から明治時代にかけて、十日町の水運は「妻有船道」と呼ばれ、信州方面との交易を担っていました。十日町で織物が成長した背景には、高価な割に軽量な織物が、信濃川の水運を利用した輸送に最適だったということもあるそうです。

■参考2
■参考3

飯山線は信濃川ともうひとつ、国道117号線にも並行しています。国道117号線は江戸時代に整備された「谷街道(千曲~十日町)」が由来です。水運と街道を通じて、新潟から信州方面へ日本海の海産物などが運び込まれた他、江戸時代に流行した善光寺参りの人々も、この経路を利用していました。

これだけ雪深い山奥に鉄道が開業した背景には、江戸時代から信濃川や谷街道を通じた、新潟~信州間のモノや人の動きの流れがあったのです。

津南駅を過ぎると、雪が降ってきました

長野方面から延びていた飯山鉄道・越後田中駅と、国鉄十日町線・十日町駅が鉄道で結ばれたのは1929年のこと。その後、戦争の影響で木材の需要が高まると、沿線にブナ林の多かった飯山鉄道が国鉄に買収され、十日町線と合併し、現在に至る飯山線が完成しました。

■参考4

森宮野原駅に到着しました。繰り返しですが、この日は上越新幹線が遅れ、上越線や只見線は運休。新潟県内を走る多くの路線が雪の影響を受けていましたが、日本最高積雪地点の標柱の周囲に雪はほとんど積もっておらず!これは平常運転も納得。本当の冬はこれからのようです。

沿線地域における産業発展の過程

冬は雪で列車が運休になるだけでなく、並走する国道117号線も通行止めとなることがあります。

桑名川駅に停車していたラッセル車

現在は除雪車があるので、大雪が降っても、長くても数日で運休や通行止めは解除されます。冬の間ずっと、人やモノの動きが止まるようなことはありません。

信濃川~千曲川の水運を代替

飯山線は川沿いを走る

除雪車がない時代に活用されたのが川です。写真の通り、流れのある川が凍ることはなく、さらに気温よりも水温が温かいため、川沿いは積雪も少なめ。江戸時代の幕府も、年貢米や飢餓の時の救援物資の輸送など、信濃川~千曲川の利用価値に期待を寄せていたそうです。

■参考5

並走する国道117号線は古くから街道として整備されていた

信濃川~千曲川の水運は、江戸時代以前から計画されていたものの、街道を利用した人やモノの運送で利益を得ている人たちは当然反対。1790年になってようやく、西大滝ー福島村(現須坂市)間で通船を行う許可が下り、これを機に信州では水運が盛んになりました。

■参考6

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は IMG_7183-1024x768.jpg です

ただ、西大滝から下流方面(新潟方面)には難所が多く、舟の運航の障害物となる岩を割る工事が始まったのは、江戸時代の末期にあたる1828年。西大滝~津南町・割野(新潟県)間で通船の検証が行われたのは、それから10年後、1838年のことでした。

その後も信濃川~千曲川の通船は続いたようですが、1893年に信越本線の直江津~長野~軽井沢~横川間(~高崎)が開業。日本海側と関東地方が鉄道によって結ばれると、水運はその役割を取って代わられることとなります。

現在の飯山駅

飯山市は信越本線の開業で産業が変化した町です。古くから飯山は信州と日本海を結ぶ交通の要所で、江戸時代も千曲川と街道を通じた物流によって栄えました。しかし、信越本線は飯山を通らず、物流拠点としての機能は失われ、その後は農業や地場産業により発展することとなります。

2020国勢調査より

現在の飯山市の産業構成を見ると、農業に従事している人が多く、稲作やアスパラガス、キュウリなどの生産が盛んなようです。

RESASより

2015年からは、北陸新幹線が飯山駅に停車するようになりましたが、人口減少は止まらず。飯山市のホームページには、高度経済成長期以降、『産業の立地する条件をもたなかったこと、さらに豪雪地帯であるというハンディもあって経済成長が停滞』とあります。

水力発電所建設

飯山線(当時の飯山鉄道)の建設が始まったのは、信越本線の開業から10年以上経った1917年です。

1921年、信越本線・豊野駅~飯山駅間が開業。そこから新潟方面に延伸され、1929年に国鉄十日町線と線路が繋がり全線開通となります。地元の有志により発起されたという飯山鉄道。鉄道建設の機運が高まった背景には、千曲川・信濃川を通じた水運の衰退、それに伴う川沿い地域経済の衰退に対する起爆剤的な期待があったのかもしれません。

しかし、資金が足りず、信越電力の出資を受け、飯山鉄道の株式の大半を信越電力が保有する状態で、鉄道路線の建設は始まりました。

日本で火力発電による電力供給が始まったのは1887年。1894年に日清戦争が起こると、原料となる石炭の価格が高騰し、各地で水力発電所の設置が盛んになります。当時、信越電力は信濃川の支流・中津川に高野山ダムと中津川発電所の建設を計画しており、この建設資材の輸送手段として飯山鉄道を必要としていたのです。

車窓からの景色

1924年までに、中津川沿いには3つの発電所が設置されましたが、この時点で飯山鉄道が開業していたのは西大滝駅まで。中津川下流、信濃川の合流地点に近い津南駅(当時の越後外丸駅)まで飯山鉄道が開業したのは1927年のことでした。

中津川沿いのダムと発電所はすでに完成しており、わざわざ西大滝より山奥へ鉄道を延伸させる必要はないように思えますが、信越電力はさらに信濃川本流にも発電所を建設する計画がありました。その発電所というのが、現在の東京電力・信濃川発電所です。

地味な景色が続く

飯山鉄道が津南駅まで開業した1927年は「昭和金融恐慌」が起きた年。電力需要が減少し、経営不振に陥った信越電力は当時の大手・東京電燈に吸収されました。一方で、1929年に飯山鉄道が十日町まで延伸開業していることから、東京電燈は飯山鉄道の株式と発電所計画を引き継いだと考えられます。

飯山~豊野間

1931年に中国東北部で起きた満州事変をきっかけに、日本は太平洋戦争まで続く戦争の時代を迎えます。今ではこの時期を「十五年戦争」といいますが、東京電燈も軍需産業を主とする経済の立ち上がりと、それに伴う電力需要の増大を予想していました。

飯山~豊野間

1936年、信濃川本流の発電所建設工事がスタート。西大滝ダムから発電所まで地下水路が引かれ、1939年からは同社の予想通り、電力が不足していた首都圏に向けて送電が行われるようになりました。

飯山駅出発直後

また、1938年には当時の鉄道省によって、信濃川本流に宮中取水ダムと千手発電所(いずれも十日町市)も建設されています。火力発電だけではなく、1872年に開業した鉄道も石炭を多く利用していたため、電化が進みました。

1895年(=日清戦争の翌年)に日本で最初の営業目的の電車・京都電気鉄道が開業。1909年には山手線も電化されるなど、鉄道の電化も水力発電の需要を高めました

十日町~津南間

現在、宮中取水ダムを利用した発電所は、千手発電所・小千谷発電所・新小千谷発電所の3か所(総称:信濃川発電所)があり、JR東日本の自営電力の約4割を賄っています。これらの発電所やダムの建設にも、飯山線が活用されました。

数々の発電所が建設された津南町は、日本有数の水力発電地帯となりました。また、山奥の秘境「秋山郷」の人々の暮らしも、水力発電と飯山鉄道の開通で一変したと言われています。それでも秋山郷はあまり秘境ということで、1892年から1936年まで義務教育が免除されていました。

2020年国勢調査より 津南町 農業従事者が多い
2020年国勢調査より 栄村 農業従事者が多い

ただ、津南町や栄村など、飯山線沿線は町村の合併が多かったこともあり、ネットを調べても歴史があまり出てきません。江戸時代以降、どのような暮らしをして年貢を収めたり、現金収入を得ていたのかは気になるところです。

温泉とスキー観光の時代へ

今回越後川口駅から乗車した列車は戸狩野沢温泉行き。

この駅があるのは飯山市野沢温泉には飯山駅からアクセスするのが一般的で、戸狩野沢温泉駅が最寄りではありません。1987年までは戸狩駅という名称でした。

ホームにあった野沢温泉道祖神

日本で唯一、名前に「温泉」と付いている野沢温泉村。温泉を発見したのは聖武天皇(724~748年)の時代の僧・行基とも言われています。江戸時代は24軒の宿があり、明治初期には約2万5千人もの湯治客が訪れたそうです。

左の列車から右の列車に乗り換え

野沢温泉といえば「野沢菜」発祥の地でもあります。江戸時代の住職が京都から天王寺蕉の種を持ち帰り栽培をしたところ、突然変異をおこし、野沢菜が誕生したそうです。

ホームと列車の間には大きな段差と幅がある

1919年、オーストリア人のテオドール・エードラー・フォン・レルヒ氏によって、日本に本格的なスキーが持ち込まれたことをきっかけに、1923年に野沢温泉スキー倶楽部が発足。冬場の産業として、スキー場開発とスキー客の誘致が始まり、こうしたスキー客や湯治客によって野沢菜が普及していきました。

戸狩野沢温泉駅の東に野沢温泉がある一方、西にあるのが戸狩温泉。こちらは戦後にスキー場が出来た後、温泉が出来たのは1991年という、比較的新しい温泉です。

まとめると、雪と山の地形が信濃川・千曲川という流れを作り、川は人やモノの移動を支え、雪解け水と地形が電気を生み出し、雪山がスキーという観光資源になり… 地域の特性を最大限に生かした産業が営まれています。そうした発展の過程で飯山線は誕生したのです。

飯山駅から長野駅までは北陸新幹線と並走

戸狩野沢温泉駅を出発すると、列車は先ほどご紹介した飯山駅を経由し、飯山線の終点・豊野駅へ。乗り換えの必要はなく、そのまま長野駅まで乗車することが出来ますが、豊野~長野間はJRではなく、しなの鉄道の線路を走るため、別途280円を支払う必要があります。

車窓に広がるリンゴ畑

ただこの時は車内での検札や案内は無く、長野駅でも改札を出ずにJR線へ乗り換えることが出来てしまうため、お金を支払うタイミングが分からず…

最後まで雪の影響を受けることはなく、定刻通り長野駅に到着。一旦改札を出て、豊野~長野駅間の運賃を支払いました。ここからは篠ノ井線・中央線を乗り継いで、東京へ向かいます。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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