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今回は「2017年 九州・沖縄の島を巡る旅」旅行記その1をお届けします。
フェリー太古で長崎・小値賀島へ
2017年11月22日、長崎県・五島列島北部に浮かぶ「小値賀島」へ向かうため、福岡県・博多にやって来ました。
博多駅から3kmほど離れた場所(徒歩約40分)にあるフェリーターミナルに到着。23時45分出港する野母商船「太古」に乗船します。小値賀島への上陸方法は船だけ。佐世保からも小値賀島行きのフェリーと高速船が出ています。
予約をしていなかったので、21時の窓口オープンと同時に乗船券を購入。小値賀島までの運賃は学割が適用されて片道3,140円でした。
船には出港の2時間前から乗ることが出来ます。残念ながら写真がほとんど残っていませんが、離島航路にしてはなかなか綺麗な船で驚きました。シャワーは24時間無料、トイレはもちろんウォシュレット付きです。
博多港を出港すると、太古は宇久島→小値賀島→中通島→奈留島→福江島の順に、五島列島の島々へ寄港します。小値賀島の到着は朝4時40分です。
寝過ごしたら大変なので、乗船後はすぐに就寝。途中、宇久島寄港時に起きることもなく、小値賀島に到着しました。港にある船の待合室は早朝から空いており、雑魚寝が出来る仮眠室もあったので、しばらくそこで夜明けを待ちます。
朝7時過ぎ、小値賀港ターミナルの近くにある「はまゆう待合所」にやって来ました。小値賀島での滞在は1泊2日。この日はお隣に浮かぶ野崎島に日帰りで上陸します。
2020年の国勢調査によると、野崎島の人口は1人。上陸の際は渡航の7日前までに「おぢかアイランドツーリズム」への連絡が必要です。
小値賀島と野崎島を結ぶ船「はまゆう」は1日2往復運航があるので、日帰り滞在が可能。宿泊施設もあるので、島に泊まることも出来ます。船の運賃は往復1,040円です。
日帰りで野崎島上陸
途中「六島(こちらも人口1人)」を経由し、出港から約30分で野崎島が見えてきました。
帰りの船は14時55分発なので、およそ7時間の日帰り滞在です。
野崎島は全域が西海国立公園区域にあります。小値賀町に属していますが、島の南端は新上五島町の中通島の方が近く、約600mしか離れていません。
まずは、港から1.3km歩いた場所にある旧野首教会を目指します。港の目の前に綺麗なビジターセンターがあるので、そこでお手洗いを済ませてから散策を始めるのがおすすめです。
港の近くに鳥居と、上に登っていく階段がありました。GoogleMapによると「若宮神社跡」という場所のようです。
階段の上にあったのは瓦の山と狛犬・獅子。この神社がいつ建立されたもので、いつ崩れたのかは不明ですが、野崎島では縄文時代の土器も発見されており、かなり昔から人は住んでいたようです。
港から教会方面に向かう道路はこんな感じ。集落に入らなければ、迷う心配はありません。
眼下にまるで沖縄のような美しい海が広がりました。
11月の曇り空の下でこれなので、きっと夏はもっと綺麗なはず。
砂浜へ降りる道もあるので、プライベートビーチでのんびり過ごしたり、海水浴を楽しむことも出来ます。
一方で、倒れていた看板によると、サメも出るようなので、遊泳の際は注意が必要です。
島といえば、海や山といった自然が観光の魅力ですが、野崎島の見どころは文化!島そのものが、世界文化遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』の構成資産となっています。
旧野首協教会
港から目指していた旧野首教会に到着しました。教会内の撮影は事前に許可を得る必要がありますが、鍵は開いており、自由に見学することが出来ます。
1908年に建設されたレンガ造りの教会堂。総工費は現在のお金で2億円とのこと。集落に住む17世帯の住民たちが、生活を切り詰めながら、キビナゴ漁などで資金を蓄えたそうです。1985年には小値賀町が全面改修を行うなど、文化財として保全されています。
ステンドグラスから外の光が入る、薄暗く静かな教会内を見物して外へ出ると、1人の外国人観光客の方がいました。「五島列島の教会巡り」をするために、オランダかやって来たそうです。英語で少しお話しして、別れ際にベルギーのチョコレートを頂きました。
こちらの写真、左側にある建物が教会、右側は自然学村塾という施設です。この施設があるおかげで、野崎島には電線が通っています。
1985年に閉校となった小・中学校が再利用された自然学村塾。トイレ・浴室・炊事場等が完備された簡易宿泊施設となっています。島内では、ドコモだけが一部エリアのみで入りますが、ここではWi-Fiも繋がるそうです。
ここから先は道が崩壊しています。この先にも「沖ノ神嶋神社」や「王位石」といったスポットがありますが、崩落や遭難、イノシシ等の危険があるため、ガイドツアーに参加しなければ行くことが出来ません。
港から続く道はここまで。海を挟んだ向こう側に見えているのは小値賀島です。
一方で、教会の向こう、水平線の先にうっすらと見えている島影は長崎県の平戸付近であると思われます。
かつての集落を歩いて観光
続いては港周辺に戻り、廃墟となった集落を散策します。
まるでサバンナのような景色が広がる場所に出ました。火山活動の影響を受け、鉄分を含んだ赤土の土壌となっています。
戦前の野崎島には、野崎・野首・舟森の3集落があり、1950年代には650人前後の人々が暮らしていたそうです。そのため、こうした自然に多少人の手が加わっている可能性もありますが、ほとんど手つかず状態と言えるでしょう。
かつての集落の跡はそのまま残されています。王位石や沖ノ神嶋神社(704年創建)が、五島列島周辺の海上交通の守り神として拝まれていたことから、野崎島にはもともと沖ノ神嶋神社の神官と氏子しか住んでいなかったそうです。
江戸時代になると、野崎島や小値賀島は平戸藩に入り、沖ノ神嶋神社の神官は平戸藩の役人を兼ねました。
こちらが江戸時代の長崎周辺の様子。五島列島の島々(福江藩)には、旧野首教会のような教会が点在していますが、その背景にあるのは「潜伏キリシタン」と呼ばれる人々の存在です。
1613年に禁教令が出ると、キリスト教信仰への取り締まりが強化されました。当時の長崎には多くの信者がおり、皆さん密かに信仰を続けたそうで、そうした人々がいわゆる「潜伏キリシタン」です。五島列島(五島藩)でもキリスト教弾圧は徹底され、18世紀には信仰が壊滅したと考えられています。
■ 参考:長崎・教会巡りの基礎知識
しかし1796年、五島藩の農業活性化を目的に、大村藩の農民1,000人を島へ移住させる約束が両藩の間で結ばれると、五島列島の島々に潜伏キリシタンが増加。五島は厳しい弾圧を逃れることの出来る地として、最終的に3,000人が移住し、潜伏キリシタンの島々となりました。
野崎島にも潜伏キリシタンに人々が上陸。彼らは神社の氏子を装いながら、密かにキリスト教信仰を続けたと言われています。
明治時代に入ると、1873年にキリスト教信仰が黙認されるようになり、1889年の大日本帝国憲法によって、国民に信仰の自由が認められました。五島の潜伏キリシタンもカトリックに復帰。野崎島では1882年に最初の木造教会が建てられました(旧野首教会が出来たのは1908年)。
道端に散らばった一升瓶。いつの時代のものでしょうか。
高度経済成長とともに、自給自足型の生活は継続出来なくなり、野崎島の人口減少が始まりました。舟森集落は1966年、野首集落は1971年の時点で廃村となっています。
2001年まで野崎島で暮らした最後の住民は、沖ノ神嶋神社の宮司だったそうです。現在は、自然学村塾を管理している方が常駐しているため、国勢調査の人口は1人となっています。
シカを発見しました。
野崎島には約400頭のニホンジカが生息しているそうです。
また、集落内であるにも関わらず、イノシシ捕獲ケースも設置されています。
あっという間に帰りの船の時間となりました。集落は手付かずのまま放置されているので、これから更に荒廃が進み、島の雰囲気も変わってくるはずです。
この日は小値賀島のゲストハウスに1泊。11月末の平日ということもあり、泊まっているのは私1人だけ。夕飯は静かにカップ麺を食べました。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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