ブログをご覧いただきありがとうございます。
今回は【2020年→2021年 年末年始の旅】旅行記その9をお届けします。
★前回の記事は こちら ★
日本最北端・稚内駅の歴史
2020年の国勢調査によると、宗谷本線の終着地・稚内市にはおよそ3万3千人が暮らしています。
その歴史は1685年、松前藩が「宗谷場所」という役所を置いたところから始まり、アイヌの人々との交易の場や北方警備の要所として栄えてきました。天気のいい日には、稚内市の北端・宗谷岬から直線距離で43km先に浮かぶ「樺太」を見ることが出来ます。
日露戦争後のポーツマス条約(1905年)で南樺太(サハリン南部)が日本に割譲されましたが、しばらくの間は、北海道本土と南樺太を結ぶ公共交通機関が無かったようです。
1922年に音威子府から浜頓別を経由する天北線が稚内駅まで開通。1923年には「稚泊航路(稚内ー樺太)」が就航し、稚内は北海道から樺太へ渡る人たちの玄関口となり、宗谷本線は連絡船を利用する人々を運ぶようになりました。
なお、天北線開通当初は、現在の南稚内駅が鉄道の終点(当時の「稚内駅」は1939年に「南稚内駅」に改称)。南稚内駅から連絡船が出る港まではおよそ2.5km離れているため、鉄道から連絡船への乗り換えは徒歩と荷車で行われていたそうです。
この不便を解消するため、1928年に「稚内港駅」が開業。この駅が現在の稚内駅です。乗り換えの際の移動の問題は解消された一方で、稚内港を襲う強い風と波は、鉄道から船に乗り換える乗客を困らせていました。
さらに、樺太行きの定期船も港に接岸することが出来ず、小型の船(はしけ)で沖に出て、停泊する定期船に乗り換えていたそうです。
こうした問題を解消するため、1936年に「北防波堤ドーム」が竣工、1938年には北防波堤ドームそばに「稚内桟橋駅」が開業。波風をしのぐことが出来るだけでなく、樺太行きの船も接岸出来るようになり、乗客の利便性は大幅に改善されました。
北防波堤ドームと相沢食料百貨店
終戦直後に稚泊航路が運航を終えたことに伴い、稚内桟橋駅は廃止。現在は稚内港の場所も変わり、北防波堤ドームは本来の役割を失っていますが、北海道遺産として稚内の観光名所になっています。
現在の建物は1980年に改修されたもので、高さ13.6m、柱の内側から壁までが8m、総延長427m、柱の総数は70本。まるで古代神殿のような外観です。
Free Wi-Fiも整備されていました。
稚内駅前にある相沢食料百貨店もまた、お店の入口に「SINCE 1922」と書かれており、稚泊航路就航当時からのお店です。稚内と樺太を行き来する人々も、船や鉄道に乗る前にこのお店を利用していたのでしょう。
やはり海産物のコーナーは広く、北海道で獲れた魚介類がずらりと並んでいます。
海産物だけでなくお肉も充実。「食べよう最北!」というコンセプトの下、地元で獲れた食材の販売に力を入れているようです。
お肉コーナーに「エゾ鹿ハンバーグ(えぞ鹿肉100%)」があるのは、北海道のスーパーならではのこと。
ビールコーナーではサッポロ・クラシックと沖縄のオリオンビールが、横並びで販売されていました。
北海道から定期船で樺太(ロシア・サハリン)へ
樺太との定期航路が開設されてから、稚内ではロシアとの交流が増加。
太平洋戦争で定期航路は途絶えたものの、1972年にサハリン州・ネベリスク市と稚内市が友好都市となり、最近まで稚内港では、ロシアとの貿易も盛んに行われていました。相沢食料百貨店の近くにある商店街では、ロシア語の看板を掲げるお店がいくつもあります。
1995年には稚内とロシア・サハリンのコルサコフ(大泊)を結ぶ定期航路が再開。この船は北防波堤ドームではなく、駅から10分ほど歩いた場所にある、礼文島や利尻島へ向かう船と同じ港から出ていました。
しかし、この航路は2019年から運航休止。今のところ廃止ではなく休止であるため、GoogleMapにも「鴛泊(利尻島)」「香深(礼文島)」と並んで、「コルサコフ(サハリン)」と書かれています。いつの日か稚内と樺太を結ぶ定期船が復活するのでしょうか。
現在も利尻島・礼文島へ行く船が出るフェリーターミナルの片隅には、定期航路就航中にロシア側から贈られた様々な記念品が展示されています。
稚内桟橋駅が廃止になってからは、稚内駅が「日本最北端」の駅です。JR線で日本最南端の指宿枕崎線・西大山駅(鹿児島県)から稚内駅まで線路は繋がっており、その距離は3000km以上にもなります。
■ 参考:日本最南端の駅は赤嶺駅(沖縄県)
稚内駅を18時3分に発車する名寄行きの列車に乗車。この列車は名寄駅で旭川行に接続しているので、この日のうちに旭川まで移動することが出来ます。
.
今回はここまで。本日もありがとうございました。
★続きはこちら★
コメント