五島列島には51のカトリック教会があり、 2018年には『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』が世界文化遺産にも登録されました。潜伏キリシタンとはキリスト教信仰が禁じられる中で、密かに信仰を続けた人たちのこと。今回は【日本へのキリスト教伝来】から【キリスト教が禁じられるまで】の歴史を確認します。
■ 参考:2017年 五島列島旅行記
日本へのキリスト教伝来の歴史
日本にキリスト教を伝えた人物として有名なのは、イエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエル氏です。
1547年、インド・マラッカで鹿児島生まれの「やじろう」と名乗る日本人に出会ったことをきっかけに、ザビエル氏は1549年9月(戦国時代)にやじろうと共に鹿児島へ上陸。領主・島津貴久からキリスト教布教の許可を得ました。慣れない日本語で必死にキリスト教の教えを説き、鹿児島で100人を超える信者を集めたそうです。
《疑問》
・ザビエル氏はなぜインドにいたのか
・やじろうって誰?
・人々はザビエル氏を怪しいと思わなかったのか
一方、仏教徒の反感も買ったようで、1550年6月、長崎県の平戸にポルトガル船が寄港したと聞いたザビエル氏は、鹿児島での活動をやじろうに任せ平戸へ移動。当時、平戸を治めていた肥前国の戦国大名・松浦隆信からキリスト教布教の許可を得ました。
平戸でも多くの信者を獲得した後、日本全土で布教活動を行う許可を得るため、ザビエル氏が向かったのは京都。しかし、戦国時代の京都は荒れ果てており、天皇や将軍に会うことは出来なかったそうです。そこでザビエル氏は、各地を治める戦国大名に会いに行く戦略に変え、まずは周防国・大内義隆、続いて九州北東部を支配していた大友宗麟からもキリスト教布教の許可を得ました。
《疑問》
・そんなに簡単にトップに会えるものなのか
・ザビエル氏は凄腕営業マンだったのでは?
各地を旅する中で、日本が中国の仏教の影響を受けていることに気付いたザビエル氏。続いては、中国にキリスト教を布教し、中国から日本へ流入させるという長期戦略を立てます。1551年に一旦インドへ戻ってから、中国へ向かいましたがそこで病死。中国、そして日本全土へのキリスト教布教は実現しませんでした。
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なぜポルトガル船は平戸へやって来たのか
ポルトガル船の平戸入港が無ければ、ザビエル氏の動きも変わっていたはずです。それではなぜ、ポルトガル船は平戸に入港したのでしょうか。キーマンとなるのは、中国出身の王直という人物です。
1500年代、中国を統治していた明は、海禁政策によって民間の対外交易や海外渡航を全面的に禁止。国家が貿易を管理する体制を取っていましたが、そのルールを破り密貿易に従事する者も一定数いました。王直もその1人。密貿易の拠点は舟山群島にある双嶼港でした。
1540年、王直は五島列島の福江島を訪れ、島を治めていた宇久盛定から通商を認められました。1542年には、貿易の利益を期待した松浦隆信の誘いを受け、拠点を平戸へ移し、双嶼港の密貿易でやり取りをしていたポルトガル船を平戸へ誘致したのです。
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ポルトガル船でやって来る人々はカトリック信者。言葉もまともに通じない相手とやり取りをする上で、こちらもカトリックであった方が関係を築きやすいと考えたのでしょうか。また、ザビエル氏による布教活動の影響もあったのか、松浦隆信は家臣の籠手田氏と一部氏がキリスト教に改宗することを許可。籠手田氏と一部氏は領民をキリスト教に一斉改宗させました。
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イエズス会の領地になった長崎
1561年、松浦隆信の家臣とポルトガル船員との間で勃発した口論から、ポルトガル船長など十数名の死傷者を出す事件(宮ノ前事件)が平戸で発生しました。
翌年からポルトガル船は平戸を避けて大村領横瀬浦へ入港。領主であった大村純忠もこれを歓迎し、キリスト教の布教活動も認め、1563年には純忠自らもキリスト教の信者となりました(日本初のキリシタン大名)。家臣や領民もキリスト教へ改宗し、神社仏閣は破壊され、地域はキリスト教一色になったそうです。
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1563年7月、インド・マラッカでザビエル氏とも交流があった宣教師・ルイス・フロイス氏が横瀬浦にやって来ました。しかしその翌月、大村で内乱が起こり横瀬浦は焼失。新たな港として1570年に長崎港の開港が認められ、1571年にポルトガル船が入港しました。
1580年、大村純忠によって長崎港周辺の一部地域がイエズス会へ寄進され、イエズス会領となりました。これはポルトガル船を味方に付け、周辺地域による長崎侵略を防ぐことが目的だったとされています。
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横瀬浦から平戸の度島に移動して布教活動を行っていたルイス・フロイス氏は、1565年から京都での布教活動を開始。しかし、永禄の変(将軍足利義輝が殺害される)により京都の実権を握った大和国・松永久秀がキリシタンを迫害したため、フロイスは一旦京都から摂津国・堺へ避難したのでした。
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1568年、足利義輝の弟・義昭が、織田信長の支援を受けて京都に入り、第15代将軍となりました。信長はこの支援によって、人々にその力を見せつけることが目的だったようです。間もなく義昭の言うことを聞かなくなった信長は、1573年に義昭を京都から追い出し、室町幕府を滅ぼしました。
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織田信長はキリスト教を保護し、フロイス氏による京都での布教活動を認めました。その背景には、信長自身が仏教勢力と対抗していたことがあるようです。しかし、寺社・仏閣が多くある京都で、キリスト教の布教は上手く進みませんでした。
1582年、本能寺の変により信長が明智光秀によって倒されると、信長に仕えていた豊臣秀吉が光秀を倒し、天下統一を目指すこととなりました。
キリスト教が禁じられる時代へ
島津貴久から薩摩や大隅の統一事業を引き継いだ島津義久は、1572年に薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げました。
島津氏による九州統一が間近となると、大友宗麟が豊臣秀吉に援助を依頼。これを受けて秀吉は1586年から九州征伐に乗り出し、1587年5月に島津氏は降伏しました。翌年7月、秀吉は「バテレン追放令」を出し、キリスト教の宣教師たちに国外追放とキリスト教の布教禁止を決定したのです。
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秀吉がバテレン追放令を出した背景には諸説あるようですが、実際に九州を訪れて、キリスト教が大名にまで広まっている実情を知ったことは事実でしょう。カトリック勢力による反乱の可能性や、ポルトガル商人による日本人奴隷の人身売買も課題でした。
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イエズス会に長崎を寄進した大村純忠が1587年5月に病死していたこともあり、秀吉は長崎をイエズス会から取り上げて直轄領としました。しかし、ポルトガルとの貿易は続いたため、キリスト教の追放は不徹底なものに終わったとされています。
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江戸幕府を開いた徳川家康は、引き続き長崎を直轄地とした一方で、貿易を奨励し、キリスト教信仰も黙認されました。1549年から1630年の間にキリスト教へ改宗した人は、約76万人に達したそうです。ここまで来ると、さすがに家康もキリスト教への警戒を感じるようになります。
当時の日本の最大の貿易国はポルトガルというカトリックの国。ちょうどこの頃、オランダとイギリスで設立された東インド会社が、家康の承認を得て平戸に商館を開きました。オランダとイギリスは同じキリスト教でも「プロテスタント」という宗派だったのは、都合がよかったのでしょう。東インド会社もまた日本への布教が目的ではありませんでした。
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1612年、ついにキリスト教禁止令が発令され、キリシタンへの迫害が厳しくなりました。幕府はさらなるキリスト教布教を阻止するため、当時長崎市内に雑居していたポルトガル人を収容するための人口島「出島」を建設したのでした。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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