合掌造り家屋の歴史~養蚕・焔硝生産業から観光へ 白川郷・五箇山の違いもご紹介|2018 旅行記

旅の思い出

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今回は「2018年 白川郷・五箇山旅行記」をお届けします。

世界文化遺産 白川郷・五箇山の合掌造りへ

2018年12月1日の朝7時前、岐阜県「白川郷」へやって来ました。

この時間に白川郷へ着くバスは無く、集落に隣接している村営駐車場も営業時間は8時から17時。基本的には白川郷に宿泊しないと、早朝の集落を観光することは出来ません

今回は「道の駅白川郷」にレンタカーを止めて集落まで歩きました。

集落全体を見渡すことが出来る「萩町城跡展望台」へやって来ました。世界文化遺産に登録されていることもあり、普段は多くの観光客で賑わいますが、この時間はとても静か。本来の集落の雰囲気が感じられます。

集落の家々は大きく傾斜した藁葺き屋根が特徴です。この屋根は仏を拝む(合掌する)時の腕の形に似ていることから「合掌造り」と言われています。「白川郷・五箇山の合掌造り集落」が世界文化遺産に登録されたのは1995年のことです。

白川郷と五箇山の違い

白川郷と五箇山地方に限定して見られる民家形態「合掌造り家屋」。同じ合掌造り集落でも白川郷と五箇山には違いがあります。

五箇山・菅沼集落

白川郷が荻町の大規模集落であるのに対し、五箇山は相倉の中規模集落、菅沼の小規模集落からなります。

白川郷ではどの家々も同じ方向を向いています。これは屋根に積もった雪を午前中は東側で溶かし、午後は西側で溶かすようにするという豪雪地帯ならではの工夫です。

一方五箇山・相倉集落の家々の向きはばらばら。まるで映画のセットのような、白川郷よりもこじんまりとした集落です。

その数は最大で1,850棟余にもなった合掌造り家屋ですが、戦後の経済発展と生活の近代化によりその数は激減。現在では白川郷、五箇山あわせて200棟以下となり、1棟1棟がたいへん貴重な存在となっています。

白川郷と五箇山地方の合掌造り家屋は、最も発達した合理的な民家形式の1つであり、日本の木造文化を代表するものです。特色のある合掌造り家屋群を中心とする農村景観は世界的に価値のある貴重な文化遺産と評価されているのです。

合掌造り家屋の歴史

ちなみにこちらが真冬の白川郷。個人的に白川郷は冬よりも夏がおすすめです。雪の中を歩くのが大変ということもありますが、積雪が高すぎて、合掌造りの屋根しか見えなくなります。

集落から展望台へ向かう道も、積雪の影響で通行止めとなっています。

雪解けから夏にかけては、田んぼに水が張り、用水路には魚が泳ぎ、セミの鳴き声が響く… いわゆる「日本の原風景」が残されています。そもそもこの山奥に、なぜ人々は住み始めたのでしょうか。

白川郷にいつから人が定住していたのか、はっきりとは分かっていないそうです。源平合戦で敗れた平家の人々(落人)が、この地まで逃げ延びてきたという伝承も伝わっている他、五箇山は1690年(江戸時代)に加賀藩の流刑地となっています。

和田家

白川郷の「和田家」は江戸時代中期に建てられたそうです。今のこの景色は300年以上前からそれほど変わらないのかもしれません。和田家は国・県指定の重要文化財に指定されており、中を見学することも出来ます。

江戸時代、徳川家光によって貨幣制度が統一され、農村では商品作物を栽培し、現金収入を得る動きが広まりました。周囲を山々に囲まれており、耕作に適した面積が少なかった白川郷。そこで発展したのが、桑を栽培し、蚕を育て、まゆを生産する養蚕業です。

養蚕は合掌造りの屋根裏で行われ、どうやら養蚕業の規模拡大に伴って、屋根も大きくなっていったようです。鎖国時代は生糸の輸入が出来ず、1859年の開国以降は生糸が日本の最大の輸出品となっていたという背景からも、それなりに養蚕需要があり、人々の生活を支えていたと想像されます。

■参考:日本が開国するまでの流れ

相倉集落はかつて五箇山でも最も養蚕の盛んな集落でした。養蚕の衰退と米の自給が進み、1950年代に桑畑は水田へと開拓されたそうです。相倉集落で最も古い合掌造り家屋は1600年代に遡る一方で、菅沼集落には大正時代に作られた家屋もあり、この時代まで合掌造り家屋が作られていたことが分かっています。

養蚕業と火薬の原料(焔硝)生産が産業だった

合掌造りの家屋では養蚕だけでなく、「焔硝(読み:えんしょう 硝酸カリウムのこと)」という、鉄砲に使う火薬の原料作りも行われていました。

冬の白川郷

1543年、ヨーロッパから種子島に火縄銃が伝来し、五箇山では焔硝生産業が飛躍的に発展したそうです。火縄銃に使用する「黒色火薬」は硝酸カリウム、硫黄、木炭の混合によって生成されます。

焔硝生産に必要なものは労働力と豊富な山草と薪だけ。家屋の床下に掘られた穴に畑土と養蚕の糞尿、山草等を入れて腐食させ、硝化バクテリアの働きによって硝酸塩を形成した土を水で溶出。その液を煮立て、濃縮することで硝石の結晶をとり出していたそうです。1605年、五箇山では焔硝が年貢の対象になったと伝えられています。

五箇山から白川郷にも広まった焔硝生産業。白川郷には焔硝の製造販売を取りまとめる「上煮屋」が3軒あり、数々の藩や商人と塩硝の取引を行っていました。ちなみに、焔硝の製造は江戸幕府には秘密にされた藩の軍事機密だったそうです。

交通が不便で、冬季は豪雪で外界から閉ざされてしまう白川郷と五箇山は焔硝製造に最適な場所だったと言われています。明治時代に入り日本が開国すると、海外から再び安価な硝石が輸入されるようになり、五箇山や白川郷の焔硝生産業は衰退しました。

現在の白川郷と五箇山の産業は観光

集落には観光向けに整備された施設もありますが、ここで現在も生活している人もいることも忘れてはいけません。

国勢調査より

2020年の国勢調査によると、白川郷(萩町)の人口は577人、五箇山(相倉・菅沼)の人口は70人。白川郷には小中学校もあります。

国勢調査より

こちらが白川郷と五箇山の産業。第一次産業に従事している方はほとんどいません。「宿泊業、飲食サービス業」に従事している方が多く、観光が集落の産業になっていることが分かります。

「合掌造り家屋」というかつての産業の名残が、現在は「観光」という新たな産業を生み出しているのが、白川郷と五箇山なのです。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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