周防大島が瀬戸内のハワイである理由~江戸時代の人口増加と出稼ぎ移民の歴史|2020 旅行記

周防大島

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今回は「2020年 周防大島(山口県)旅行記」をお届けします。

周防大島が瀬戸内のハワイである理由

2020年11月11日、山口県周防大島町へやって来ました。

屋代島・情島・浮島・沖家室島・笠佐島・前島という6つの有人島と20以上の無人島から構成される周防大島町。「周防大島」という名前の島はありませんが、本州と橋で繋がっている「屋形島」が大島(本島)としての役割を果たしています。

こちらが本州と屋代島を繋ぐ唯一の橋・周防大橋(全長1020m)。橋の周辺は「大畠瀬戸」と言われ、激しい潮の満ち引きで渦潮が発生し、その潮流は【日本三大潮流】にも数えられるそうです。2018年には、貨物船が橋に衝突する事故があり、島内のほぼ全域が約40日間の断水となりました。

RESASより

2020年の国勢調査による人口は14798人、65歳以上の人口割合は54%にもなります。この高齢化率は日本トップクラスの高さです。

コロナ前は年間100万人前後の観光客が訪れていた周防大島のキャッチコピーは「瀬戸内のハワイ」。1963年にハワイ州カウアイ島との姉妹縁組が締結され、アロハシャツを島の正装とする「アロハビズ」なども行われています。周防大島とハワイにはどのような繋がりがあるのでしょうか

■参考:島には日本ハワイ移民資料館もある

人口増加で仕事が不足していた歴史

現在は人口減少が著しい周防大島ですが、どうやら江戸時代は他の地域よりも人口増加率が高かったようです。

一般に、日本における全国の人口調査は、8代将軍・徳川吉宗の「享保の改革」の一環として、1721年に行われたものが最初と言われています。享保の飢饉(1732年)・天明の飢饉(1782年)・天保の飢饉(1833年)と食糧不足状態が続き、江戸時代中期以降の日本の人口は停滞していたようです。

島のみかん畑 山口県内で生産されるのかんきつ類のおよそ8割が周防大島町産

一方、周防大島の人口は1740年頃から1840年までの100年間で約2.5倍増加。これは島で「さつまいも」の収穫が始まり、人々の食糧不足を補うことが出来たからだと言われています。食べ物は豊富にありましたが、島で不足していたのは「仕事」です。

■参考:初島(静岡県)でも人口が増加していた

「嵩山(619m)」の山頂にある展望台

1800年代初頭から人々は島外へ出稼ぎに出るようになりました。島内の人口過剰に加えて、西南戦争(1877年)後の紙幣乱発による経済の不安定、賃金下落および就職困難による生計の困難、自然災害におる農作物の収穫不足なども重なり、明治以降は出稼ぎがさらに増加。その仕事先のひとつが「ハワイ」だったのです。

■参考:1

ハワイへ出稼ぎに出る移民が増加

ハワイでは1800年代半ばから砂糖産業が急速に発達。砂糖の生産には、多くの労働力を必要としたことから、外国からの移民の受け入れが始まりました。

1885年1月に日本はハワイと日布移民条約を締結。日本からハワイへの渡航が公式に許可され、1885年2月8日に日本人移民944名を乗せた船「シティ・オブ・トウキョウ」がホノルル港に到着すると、乗船者のおよそ3分の1が周防大島出身者だったそうです。

この背景には、当時の外務大臣が山口県出身の井上馨氏だったことがあると言われています。欧米式農業法を日本に輸入し、同時に外貨の獲得を期待して、自身の出身地・山口県での募集に力を入れました。

江戸時代から出稼ぎ文化があった周防大島では、ハワイへ出稼ぎに出ることに対しての心的ハードルが低かったと考えられます。労働契約は3年間、日本人移民は炎天下の過酷な環境で、サトウキビ畑で働き現金を稼ぎました。こうした歴史の流れの中で、周防大島にハワイの文化が持ち込まれたのです。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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