五島・教会巡りの基礎知識 ザビエル来日からキリスト教禁止まで|観光アイデア教科書vol.25

観光アイデアノート

五島列島といえば「教会」が有名です。五島列島には51のカトリック教会があり、 2018年には『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』が世界文化遺産にも登録されました。潜伏キリシタンとは、キリスト教信仰が禁じられる中で、密かに信仰を続けた人たちのこと。今回は【日本人とキリスト教の出会い】から、キリスト教が禁じられるまでの流れを確認します。

★参考:29の教会がある新上五島町★

ザビエルが平戸にやって来る

日本にキリスト教を伝えた人物として有名なのは、イエズス会の宣教師・フランシスコ・ザビエル氏です。1547年、インド・マラッカで鹿児島生まれの「やじろう」と名乗る日本人に出会ったことをきっかけに、ザビエル氏は日本を目指すこととなりました。

《疑問》
・ザビエル氏の国籍は?なぜインドにいたのか
・やじろうって誰?

フランシスコ・ザビエル 下関上陸の地

1549年9月(戦国時代)、ザビエル氏はやじろうと共に鹿児島へ上陸。領主・島津貴久からキリスト教布教の許可を得ました。慣れない日本語で必死にキリスト教の教えを説き、鹿児島で100人を超える信者を集めたそうです。

《疑問》
・人々はザビエル氏を怪しいと思わなかったのか

一方、仏教徒の反感も買ったようで、1550年6月、長崎・平戸にポルトガル船が寄港したと聞いたザビエル氏は、鹿児島での活動をやじろうに任せ平戸へ移動。当時、平戸を治めていた肥前国の戦国大名・松浦隆信から、キリスト教布教の許可を得ました。

《疑問》
・なぜポルトガル船は平戸にやって来たのか

平戸でも多くの信者を獲得した後、日本全土で布教活動を行う許可を得るため、ザビエル氏が向かったのは京都。しかし、戦国時代の京都は荒れ果てており、天皇や将軍に会うことは出来ず。各地を治める戦国大名に会いに行く戦略に変え、まずは周防国・大内義隆、続いて九州北東部を支配していた大友宗麟から、キリスト教布教の許可を得ました。

《疑問》
・そんなに簡単にトップに会えるものなのか
・ザビエル氏は凄腕営業マンだったのでは?

各地を旅する中で、日本が中国の仏教の影響を受けていることに気付いたザビエル氏。続いては、中国にキリスト教を布教し、中国から日本へ流入させるという長期戦略を立てます。1551年に一旦インドへ戻ってから、中国へ向かいましたが、そこで病死。中国、そして日本全土へのキリスト教布教は実現しませんでした。

■参考:その1

■参考:その2

なぜポルトガル船は平戸へやって来たのか

ポルトガル船の平戸入港が無ければ、ザビエル氏の動きもまた変わっていたはずです。それではなぜ、ポルトガル船は平戸に入港したのでしょうか。

現代も秘密の貿易はNG

キーマンとなるのは、中国出身の王直という人物です。1500年代、中国を統治していた明は、海禁政策によって民間の対外交易や海外渡航を全面的に禁止し、国家が貿易を管理する体制を取っていました。しかし、そのルールを破り密貿易に従事する者も一定数おり、王直もその1人。彼らは舟山群島にある双嶼港を拠点としていました。

1540年、王直は五島列島・福江島を訪れ、島を治めていた宇久盛定から通商を認められました。平戸の松浦隆信とも関係を作ると、1542年には貿易の利益を期待した隆信の誘いを受け、拠点を平戸へ移します。そして王直は、双嶼港の密貿易でやり取りをしていたポルトガル船を平戸へ誘致したのでした。

■参考:その4

■参考:その5

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ポルトガル船でやって来る人々はカトリックです。言葉もまともに通じない相手とやり取りをする上で、こちらもカトリックであった方が関係を築きやすいと考えたのでしょうか。隆信は家臣の籠手田氏と一部氏がキリスト教に改宗することを認め、地域の人々も一斉改宗しました。

■参考:その6

長崎がイエズス会領になる

1561年、松浦の家臣とポルトガル船員との間で勃発した口論から、ポルトガル船長など十数名の死傷者を出す事件(宮ノ前事件)が発生しました。

その翌年、ポルトガル船は平戸を避け、大村領横瀬浦へ入港。領主であった大村純忠もこれを歓迎し、キリスト教の布教活動も認め、1563年には、何と自らもキリスト教の信者となりました(日本初のキリシタン大名)。家臣や領民もキリスト教へ改宗し、神社仏閣は破壊され、地域はキリスト教一色になったそうです。

■参考:その7

夜景で有名な長崎港

1563年7月、インド・マラッカでザビエル氏とも交流があった宣教師・ルイス・フロイス氏が横瀬浦にやって来ました。しかしその翌月、大村で内乱が起こり横瀬浦は焼失。新たな港として1570年に長崎港の開港が認められ、1571年にポルトガル船が入港しました。

1580年、純忠によって長崎港周辺の一部地域がイエズス会へ寄進され、イエズス会領となりました。これは、ポルトガル船を味方に付け、周辺地域による長崎の侵略を防ぐことが目的だったとされています。

■参考:その8

■参考:その9

ルイス・フロイスと織田信長の出会い

ルイス・フロイス氏は、横瀬浦から平戸・度島に逃がれて布教活動を行っていました。

1565年、フロイス氏は京都へ向かい布教活動を開始。しかし、大和国・松永久秀が河内国・三好義継と共謀し、将軍足利義輝を殺害(永禄の変)。京都の実権を握ると、キリシタンを迫害したため、フロイスは一旦京都から、摂津国・堺へ避難しました。

■参考:その10

■参考:その11

1568年、足利義輝の弟・義昭が、尾張・美濃地方で力を付けていた織田信長の支援を受けて京都に入り、第15代将軍となりました。信長はこの支援によって、人々にその力を見せつけることが目的だったようです。信長は間もなく義昭の言うことを聞かなくなり、1573年に義昭を京都から追い出し、室町幕府を滅ぼしました。

■参考:その12

フロイス氏は織田信長によって京都での布教活動を認められ、キリスト教は保護されました。その背景には、信長自身が仏教勢力と対抗していたことがあるようです。しかし、今も寺社・仏閣が多くある京都での布教は上手く進みませんでした。

佐世保・九十九島に沈む夕陽

1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀によって倒されると、信長に仕えていた豊臣秀吉が光秀を倒し、天下統一を目指すこととなりました。当初は秀吉もキリスト教布教に好意的な態度を示していましたが、1587年6月「バテレン追放令」によって、キリスト教の宣教師たちに国外追放を命じ、キリスト教の布教を禁止しました。

キリスト教が禁じられる時代へ

ザビエル氏に初めて布教を許可した戦国大名・島津貴久から、薩摩や大隅の統一事業を引き継いだ島津義久は、1572年に薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げました。

鹿児島のシンボル 桜島

その後、大友宗麟(ザビエルに布教を許可)の軍も倒し、島津氏の九州統一が間近となりました。大友宗麟は豊臣秀吉に援助を依頼すると、秀吉は1586年から九州征伐に乗り出しました。島津氏が降伏を伝えたのは、1587年5月。つまり、バテレン追放令はその後に出されたことになります。

■参考:その13

九州といえば温泉

秀吉がバテレン追放令を出した背景もまた諸説あるようですが、実際に九州を訪れて、キリスト教が大名にまで広まっている実情を知ったことは事実でしょう。カトリック勢力による反乱の可能性や、またポルトガル商人が、日本人を奴隷として海外に売っていたことも問題視していました。

■参考:その14

豊臣秀吉の時代から朱印船貿易も始まった

イエズス会に長崎を寄進した大村純忠は、1587年5月に病死しており、秀吉は長崎をイエズス会から取り上げ、直轄領としました。しかし、ポルトガルとの貿易は続いたため、キリスト教の追放は不徹底なものに終わったとされています。

■参考:その15

■参考:その16

カステラも貿易で持ち込まれた

江戸幕府を開いた徳川家康は、引き続き長崎を直轄地とした一方で、貿易を奨励し、キリスト教信仰も黙認されました。1549年から1630年の間に、キリスト教に改宗した人は、約76万人に達したと言われています。ここまで来ると、家康もキリスト教への警戒を感じるようになります。

長崎のオランダといえばハウステンボス

当時の日本の最大の貿易国はポルトガルという、カトリックの国でした。ちょうどこの頃、オランダとイギリスで東インド会社が設立され、家康の承認を得て、平戸に商館が開かれました。オランダとイギリスは同じキリスト教でも、プロテスタントという宗派であることは、ちょうど都合がよかったのでしょう。また、東インド会社も、日本への布教は目的ではありませんでした。

■参考:その17

■参考:その18

1612年、ついにキリスト教禁止令が発令され、キリシタンへの迫害が厳しくなりました。さらに幕府は、キリスト教布教を阻止するため、当時長崎市内に雑居していたポルトガル人を収容するため、人口島「出島」を建設したのでした。

■参考:その19

■参考:その20

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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