コーヒー栽培と世界史 日本のコーヒーはどこからやってきた?|観光アイデア教科書 Vol.27

沖縄コーヒー

前回の記事では、コーヒー栽培に適した地域を、地理的な側面から分析しました。日本はコーヒーベルトから外れており、コーヒーの栽培に適しているとは言えませんが、沖縄や小笠原など、一部の地域でコーヒーの生産が行われています。

★参考:沖縄のコーヒー栽培★

日本のコーヒー栽培

日本に初めてコーヒーがやって来たのは江戸時代。鎖国体制下で交易を認められていたオランダの商船が、長崎・出島にコーヒーを持ち込んだとされています。

しかし、当時の日本人の口には合わなかったことに加えて、外国人と関わることが出来たのが通訳や商人、遊女などに限られていたこともあり、コーヒー文化は普及しなかったそうです。1804年から1年間、長崎奉行支配勘定方に就いた江戸の狂歌師・大田南畝は、コーヒーを飲んだ感想として「焦げ臭くて味ふるにたえんものだ」と記しています。

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また、江戸時代後期に長崎・出島のオランダ商館付医師として来日したシーボルトは、日本でコーヒーが広まらない理由を「牛乳を飲まないから」「焙煎法を知らず、豆を焦がし、味と価値を台無しにしている」とし、「薬品応手録」の中で、コーヒーは長寿をもたらす良薬であると推奨しました。

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1858年に日米修好通商条約が締結されると、コーヒーやその原料のコーヒー豆が正式に輸入出来るようになりました。公式の記録として、コーヒー豆の輸入が開始されたのは1877年のこと。1888年に東京・上野に日本で最初の喫茶店(珈琲店)とされる「可否茶館」が開店すると、昭和初期の東京には、コーヒーを楽しむためのカフェが7,000軒も存在したそうです。

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小笠原諸島とコーヒー

明治政府の外務大臣・榎本武揚が、オランダへの留学中にコーヒー栽培に興味を持ったことをきっかけに、1878年、インドネシア・ジャワ島のコーヒーの苗木が小笠原諸島へ移植され、日本初のコーヒー栽培が行われました。4年後に収穫はあったようですが、継続的な栽培の定着には至らず。

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太平洋戦争と米軍統治で小笠原のコーヒー栽培は中断しましたが、、本土復帰後、野生化しているコーヒーの木が発見されると、栽培が再開され、現在は特産品のひとつとして、島のカフェなどで提供されています。

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沖縄とコーヒー

沖縄のコーヒー栽培の始まりには諸説ありますが、1923年頃、琉球国王・尚泰王の四男・尚順氏がハワイからコーヒーの種子を持ち帰り、那覇市首里の桃原農園を経て、本部町伊豆見の農園で栽培を行っていたことが知られています。また1934年には、木村コーヒー店(現キーコーヒー)が「慶佐次農園」を開設し、コーヒー栽培事業開始しました。

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しかし小笠原と同様、戦争と米軍統治により栽培は中断。戦後、和宇慶朝伝氏がブラジルからコーヒーの苗木を導入し、うるま市・具志川で栽培を始めました。現在は、和宇慶氏から教えを受けた恩納村の山城武徳氏が、沖縄コーヒー栽培の礎を築いた人物として紹介されています。

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コーヒーの発見

インドネシア・ジャワ島から日本へ持ち込まれたコーヒーの木ですが、もともとジャワ島にコーヒーは自生しておらず、エチオピアやアラビアから世界中に広まりました。ただし、その起源を辿る明確な資料はなく、2つの伝説で語られる場合が多いです。

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ひとつ目はエチオピアの山羊飼い・カルディがコーヒーを発見したという説。ある日、山羊が楽しそうに飛んだり跳ねたりしていることに気が付き、調べてみると、周囲に茂る木に成る赤い実を食べていることが分かりました。自分も食べてみると、爽快な気分になったため、毎日この赤い実を食べていたそうです。ある時、イスラム教の僧侶がカルディから赤い実について聞き、仲間の僧侶たちにも食べさせたところ、やはり爽やかな気分になったそうで、それ以来魔法の豆として、密かに愛用されるようになったとのこと。

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もうひとつはイエメン・モカに残るイスラム教徒シーク・オマールの伝説。オマールは疫病が流行っていたモカの町で、祈祷を捧げ、人々の病気を癒していました。モカ王の娘が病気にかかった際、祈祷で病気は治りましたが、オマールは美しい娘に恋をしてしまい、山中に追放されます。山中で過ごしていたある日、オマールは陽気にさえずる小鳥が止まる枝先に、赤い実がついているのを発見。その実を口にしたところ美味しかったため、彼は赤い実のスープを作りました。スープを飲むとたちまち爽快な気分になったそうです。彼はそのスープを町へ伝えたことで、山中から戻ることを許されました。

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UCCのホームページにある年表には、『1470年、エチオピア高原からイエメンにコーヒーの木が移植される』とあり、やはりコーヒーの起源は曖昧なようです。1400年代後半になると、コーランで飲酒を禁止されているイスラム教徒に、嗜好品としてコーヒーが飲用されるようになりました。

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1505年、アラブ人によりコーヒーの木がイエメンからセイロン(現在のスリランカ)へ伝播したとされていますが、スリランカで本格的なコーヒー栽培が行われるようになったのは、1658年にオランダ東インド会社が苗木を持ち込んでからという説が一般的です。

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1510年、飲物としてのコーヒーがエジプト・カイロに伝わりました。そして1517年、オスマン帝国・セリム1世がカイロを攻略し、マムルーク朝を滅ぼしたことをきっかけに、コーヒーを飲む文化はトルコ・イスタンブールに伝わり、1554年、イスタンブールに世界初のコーヒーハウスが誕生します。

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コーヒーが世界へ広がる

16世紀から17世紀(1500-1600年代)は、いわゆる大航海時代。各地で商人による交易が盛んに行われ、その過程でコーヒーを飲む文化は1602年にイタリア・ローマへ伝わります。当初コーヒーは異教徒の飲み物であり、「悪魔の飲み物」とさえ呼ばれていましたが、法王クレメンス8世(在位:1592年 – 1605年)がその美味しさを称賛し、コーヒーに洗礼を施して、キリスト教の飲み物として認めたという伝説が知られています。

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1645年、ヨーロッパ最初のコーヒーハウスがイタリア・べネチアに開店すると、1652年にイギリス・ロンドン、1672年にフランス・パリにもコーヒーハウスが開店。また北アメリカやドイツにもコーヒーが伝わりました。

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この頃、世界に供給されるコーヒーの生産地はイエメンのみで、イギリス・フランス・オランダの東インド会社が輸入取引をし、主要港・モカ港には各国の商館が立ち並びました。当時イエメンを支配していたオスマン帝国は、コーヒーの生産地拡大を防ぐため、パーチメントコーヒーや脱穀前の実、苗木の持ち出しは禁じていましたが、1658年、オランダ東インド会社がセイロン島へコーヒーの苗木を持ち込み、少量栽培に成功します。

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1695年、イスラム教巡礼者・ババ・ブータンがイエメンからインド南西岸にコーヒー豆を伝えたことで、インドでのコーヒー生産が始まると、1699年にはオランダがインド南西岸からインドネシア・ジャワ島へコーヒーの苗木を送った後、大量生産に成功。オランダはセイロンやジャワで生産したコーヒーを、イエメンのモカコーヒーより安い値段でヨーロッパへ売り込み、コーヒー取引をほぼ独占することとなりました。

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1706年、ジャワ島の農園にあった1本のコーヒーの苗木が、アムステルダムの植物園に移植されると、その苗木は実を結び、この木の種子が元になって、世界各地へコーヒーが伝播することとなります。1714年、オランダ・アムステルダム市長から、フランスの国王ルイ14世にコーヒーの苗木が寄贈されたことをきっかけに、フランスがコーヒー貿易に参入しました。

1723年、フランスの将校・ガブリエル・ド・クリューが、配属先のカリブ海・マルティニーク島にコーヒーの苗木を移植。その後、周辺の仏領ギアナとスリナムにも苗木が植えられ、カリブ海系コーヒーの基礎が築かれました。

1727年、仏領ギアナとスリナムの間で国境を巡る争いが起こると、ブラジルが調停役として両国の間に入りました。このことをきっかけに、現在コーヒー生産量世界一のブラジルに、コーヒー栽培が伝わることとなります。

プランテーションとコーヒー栽培

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カリブ海諸国でコーヒー栽培が始まった頃から、ブラジルもコーヒー栽培に興味を示していました。仏領ギアナとスリナムの紛争問題解決のため、仏領ギアナへ派遣されたフランシスコ・デ・メロ・パリエッタ。彼には、生育可能なコーヒーの種か苗木をブラジルへ持ち帰るという任務も与えられていました。

仏領ギアナも、オスマン帝国支配下のイエメンと同様に、コーヒーの国外流出予防策を講じており、コーヒーの種子や苗木を国外へ持ち出すことを禁じていました。しかし、結果としてフランシスコ・デ・メロ・パリエッタは、ブラジル・アマゾンへコーヒーの苗を持ち帰ることに成功します。

どうやら彼はイケメンだったようで、彼のファンになった仏領ギアナの人々にコーヒーを飲んでみたいと頼んでいたそうです。やがて、ファンのひとり「カイエンヌ」と恋に落ちます。国境紛争が解決し、彼がブラジルへ帰国する際、お別れの晩餐会でカイエンヌから贈られた花束の中に、コーヒーの苗木や種が入っていたのでした。

当時のブラジルはポルトガルの支配下にあり、アフリカ人奴隷による砂糖のプランテーション(輸出用に取引価値の高い単一作物を大量に栽培する(モノカルチャー)大規模農園またはその手法)が行われていました。広大な大地と多くの人手を必要とするコーヒー栽培にも、奴隷を用いたプランテーションが導入されたことで、安価なコーヒー生産が可能となり、ブラジルは一躍コーヒー大国となったという歴史があります。

現在、コーヒー生産量世界第2位のベトナムと第4位のインドネシアも、それぞれフランスとオランダの植民地下の時代にコーヒーの大量生産が始まりました。1857年からベトナムを支配したフランスは少数民族を主な労働者することで、オランダは1830年代から強制栽培制度を施行することで、コーヒープランテーションを開発し、生産量を伸ばしました。

生産量第3位のコロンビアも、かつてはスペインの支配下にありました。しかし、コーヒー生産は周辺諸国よりも遅れており、品質向上に力を入れ始めたのは1927年、「コロンビア国立コーヒー生産者連合会」が設立されてからのこと。スペインによってコーヒー栽培を強制されることがなかったためか、今も大規模な農園は無く、小規模な農園が無数に存在しているようです。

生産量第5位のエチオピアは、これまでの歴史上、イタリア領となった1936年からの5年間を除いて植民地化されることなく、独立を保ってきました。生産量が多い一方で、コロンビアと同様、コーヒーの栽培を強制された歴史がないため、輸出量は少なく、自家消費の割合が高いという特徴があります。

最後に~国産コーヒーのこれから~

コーヒー豆は一次産品(加工されていない産出品)としては、石油に次ぐ貿易額を誇り、米や小麦、砂糖をはるかに上回ると言われています。しかし、日本は地理的にコーヒー栽培には適していないことに加えて、コーヒー栽培の歴史もまだまだ浅く、諸外国並みの大量生産は出来ません。国産コーヒーがどのような発展を遂げるのか、今後に注目です。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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