戦艦大和と富山丸の慰霊塔がある理由~徳之島と戦争で沈没した船たちの歴史|2022 旅行記5

旅の思い出

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今回は「2022年 徳之島旅行記」その5をお届けします。

★前回の記事★

戦艦大和の歴史と慰霊塔がある理由

徳之島コーヒーを飲むためにお邪魔した『喫茶コーヒー スマイル』には、戦艦大和資料展示室が併設されています。

第一次世界戦後に締結されたワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約の期限である1936年が迫る中、各国間で軍艦の建造競争が懸念されていました。日本海軍でも他国に勝る性能を有する戦艦の建造が計画され、1941年12月16日に就役したのが「大和」です。

こちらは犬田布岬(徳之島最西端)にある戦艦大和の慰霊塔。第二次世界大戦当時、大和は世界最大の戦艦で、慰霊塔の高さは大和の司令塔(艦橋)と同じ24mとなっています。

資料展示室にて

しかし、航空母艦(空母)や航空機の台頭により、太平洋戦争における戦艦大和の戦術的価値はすでに失われていました。1943年8月にはトラック環礁へ向かうものの、参戦することなく停泊したままだったことから、「大和ホテル(ホテルのように快適だったらしい)」と揶揄もされていたそうです。

★参考:トラック諸島と戦争の歴史★

1944年11月に呉へ帰還してからは、船を動かすための燃料が不足していたこともあり、しばらく瀬戸内海に待機していた戦艦大和ですが、1945年4月5日、海上特攻隊としての出撃命令(菊水作戦)が下りました。目的地は米軍が上陸した沖縄です。

しかし、この動きは間もなく米軍に察知され、4月7日、多数の米軍艦載機による攻撃を受け、北緯30度43分17秒・東経128度04分00秒(一般的には鹿児島県・坊ノ岬沖と言われる)で大和は沈没。

乗組員3332人のうち生き残ったのはわずか276人でした。

沈没した大和が海底で「発見」されたのは、潜水調査が行なわれた1982年。つまり、沈没から35年以上、大和の最期は明らかになっていなかったということです。

大和の沈没場所と徳之島は距離が離れていますが、「徳之島西二十海里洋上に轟沈シテ巨體(きょたい)四裂ス」という生存者の証言から、1968年、犬田布岬に慰霊塔が建てられました。

そして現在まで、毎年の慰霊祭は犬田布岬で行われています。

路線バスで徳之島を1周しました

喫茶コーヒー スマイルでは「徳之島コーヒー」「硫黄鳥島」「戦艦大和」のお話しを伺い、非常に価値ある時間を過ごすことが出来ました。

バスの時間に合わせて犬田布岬を出発し、30分ほど歩いてバス停「岬入口」に戻ってきました。

16時5分発 亀津行きのバスは定刻通りやって来ました。

このまま亀徳新港まで移動します。

バスの窓に「走行中はシートベルトの着用をお願いします」というシールが貼られていましたが…

そもそも座席にシートベルトがありませんでした(笑)これが島です。そしてこのバスもまた、乗っているのは私だけ。

反時計回りに島を1周し、徳之島町に戻ってきました。

やはり港周辺は栄えており、離島であることを忘れさせるような景色が広がります。

約30分で亀徳新港に到着。岬入口からの料金は800円。今回は1日路線バスを利用し、約2500円で島を1周することが出来ました。途中歩く場所もありましたが、レンタカーよりもかなりお得です。

時刻は16時半過ぎ。亀徳新港では沖縄からやって来た鹿児島行きのフェリーが、ちょうど入港作業をしているところでした。

戦争で沈没した富山丸の慰霊塔

この日最後に訪れたのは、亀徳新港から歩いて30分ほどの場所にある「なごみの岬公園」。

ここには徳田虎雄顕正記念館だけでなく、1944年6月末に徳之島亀徳沖で沈没した輸送船「富山丸」の慰霊塔があります。

★参考:徳之島と徳田氏の関係について★

太平洋戦争後半の1944年3月15日、南西諸島防衛のため、沖縄本島(首里城)に司令部を置く第32軍が編成されました。この時すでに劣勢に立たされていた日本軍。6月11日からは、当時日本が占領していたサイパンに米軍が攻撃を仕掛けていました。

★参考:太平洋戦争の流れについて★

1944年6月27日、鹿児島湾を出港した富山丸に課された任務は、防衛強化が急がれる第32軍の増援部隊を輸送することでした。

しかし出港から2日後、徳之島沖で米軍の潜水艦「スタージョン」の攻撃を受け沈没。犠牲者は3700人以上と、戦艦大和の沈没よりも多くの方が犠牲となりました。また、来る予定だった人たちが来れなくなったため、沖縄本島の飛行場建設に遅れが生じるなどの影響もあったそうです。

7月、絶対国防圏の一角であるサイパンが陥落し、米軍が南西諸島へ侵攻することが予想されると、政府はすぐさま南西諸島の老幼婦女子10万人(九州へ8万人・台湾へ2万人)の疎開を決定。徳之島の学童や住民らは、1944年9月末に奄美大島・古仁屋へ移動し、疎開船「武州丸」で九州本土を目指しました。

しかし、武州丸もまた米潜水艦の攻撃を受けて、トカラ列島・中之島沖で沈没。徳之島の住民は計148人が犠牲になりました。なごみの岬公園には武州丸の慰霊碑も置かれています。

戦艦大和、富山丸、武州丸、そして対馬丸など、沖縄~鹿児島間の海で沈没した船の歴史を知ると、改めて絶望的な状況で沖縄戦が始まったことが分かります。また、この地域の海上を行く船でゆったりした時間を過ごせるのは、とてもありがたいことだなと思うのでした。

★参考:対馬丸の慰霊碑は悪石島にある★

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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