八丈島と年貢と黄八丈~最後までモノで納税が行われていた島|観光アイデアノート vol.26

観光アイデアノート

現代の日本において、自給自足だけで生活することは出来ません。【現金で納税】をするために、一定の現金収入が必要です。

八丈島と年貢と黄八丈

1873年、明治政府が行った「地租改正」によって、現金による納税が始まりました。

八丈島にて

地租改正以前も納税義務(年貢)はありましたが、納めるのは現金ではなく「米」。地方によって税率がまちまちであることに加えて、天候不順等による収穫量の減少等の影響も受けるため、税収は不安定だったと言われています。

■ 参考:1

また、地理的な条件から米の収穫が出来ず、地域の特産品(モノ)を納税していた地域もあります。東京都心から南へ約290kmに位置する八丈島もそのひとつ。南の「三原山(東山)」と北の「八丈富士(西山)」という、2つの海底火山がつながって出来たこの島は、耕作に適した土地が少なく、昔から度々食糧不足に見舞われてきました。

八丈島にて

江戸時代、幕府の直轄領になった伊豆諸島の島々は、米の代わりに「塩」を納めましたが、八丈島が納めていたのは「絹織物(黄八丈)」です。黄八丈は将軍の陣羽織などに使われ、功績を上げた家臣への下賜品としても使われました。時代とともに黄八丈は武士や商家の女性にも広まり、歌舞伎の衣装で黄八丈が使われた際には、江戸で「黄八丈ブーム」も起こったそうです。

■ 参考:2

流罪の地・八丈島

八丈島には縄文時代から人が住んでいたと言われています。

こちらは八丈島のそばに浮かぶ無人島「八丈小島」。高度経済成長に取り残され、教育や医療、電話、水道施設なども無かったそうです。人口流出が止まらず、1969年に全島民の八丈島移住が決定しました。

八丈小島には、平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が渡来し、自害した伝説が残されています。八丈島へ絹織物の技術を伝えたのが、源為朝だったという説もあるそうです。

■ 参考:3

八丈島・底土港にて

その後、江戸時代に「流罪の地」となった八丈島には、1800人以上の流刑者が送られました。関ヶ原の戦いで西軍・石田三成方に属した宇喜多秀家が、八丈島への公式な流人第一号と言われています。

■ 参考:4

八丈島の夜景

陸奥国伊達郡金原田村(福島県伊達郡保原村)の名主の息子・菅野八郎も八丈島へ流された人物の一人。彼が来島した1860年当時、すでに八丈島は絹織物の島として有名でした。桑畑もありましたが、養蚕技術は遅れており、大量の生糸を移入していたそうです。彼の出身地・伊達郡は養蚕の本場。彼は島で「蚕養八老伝」や「奥州伊達八老飼方 蚕飼方仕法」などを著し、八丈島の養蚕技術の向上に努めたと言われています。

■ 参考:5

最後までモノで納税が行われていた

八丈島の名物「明日葉」を使ったそば

その後八丈島は、地租改正後も日本で一番遅くまで「現金」ではなく、「モノ」による納税が許可された地域となりました(~1911年)。島民は絹織物の原料となる生糸を村に収め、村で絹を織り、島の役人を通して政府に納め、政府がそれを公売し、その金額が国庫へ払い込まれていたそうです。

八丈島名物「島寿司」

なお、江戸時代には相次ぐ食料不足を補うため、幕府から借用した食糧分も更に黄八丈で返済しなくてはならない状況だったとされています。明治維新を経て、経済状況や服飾の嗜好が変わると、物納から金納(モノから現金による納税)に改めてほしいという請願が、島民から出されるようになりました。

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2020年 国勢調査より

現在の八丈島は「医療、福祉」「建設業」「農業、林業」の島。八丈島では明治時代から酪農が始まり、森永乳業の工場も作られ、酪農王国と呼ばれた時代もありました。戦後の高度経済成長を経て、本土で大量生産された乳製品が島に入ってくると、花卉園芸に転向する農家が増え、酪農は衰退したそうです。現在は酪農王国復活の取り組みが行われています

また、明治時代の八丈島では「開拓」によって、食糧と現金の獲得を目指す動きが出てきました。その代表的な人物が玉置半右衛門です。

国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

1838年に八丈島・大賀郷村に生まれた玉置半右衛門。1862年に江戸幕府の軍艦・朝陽丸に乗船し小笠原諸島に渡ると、明治維新以後には、最初の小笠原島開拓者として渡航しました。1879年に八丈島で絹織業を開始。1887年には「鳥島」を開拓し、アホウドリの羽毛の採取事業を行いました。沖縄県の大東諸島を開拓したのも玉置半右衛門なのです。

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今回はここまで。本日もありがとうございました。

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