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今回は「2023年 開国の歴史を辿る旅」その1をお届けします。
日帰りで横須賀を観光
2023年7月16日11時、神奈川県横須賀市にあるJR横須賀線の終点・久里浜駅にやって来ました。

この日は「開国」をテーマに、日帰りで横須賀を観光します。1853年7月14日、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが、ここ久里浜の地に上陸。当時鎖国中だった江戸幕府に対し、アメリカ大統領フィルモアの国書を提出し、開国を要求しました。

その歴史的な出来事にちなんで、久里浜駅前の案内板には「開国のまち」と記されていたり…

歩道にも黒船らしき船が描かれたプレートが埋め込まれていたりもします。

まずは開国の歴史に触れるべく、駅から約1.3kmの場所にある「ペリー公園」へ。

20分ほど歩いて到着したこの公園は、ペリーの久里浜上陸を記念して整備されたもので、「日本の歴史公園100選」にも選ばれているそうです。

公園内には、横須賀市の市制80周年を記念して1987年に建てられた「ペリー記念館」があります。入場は無料です。

ここからはペリー記念館の資料や、私の旅の記録をもとに、日本の鎖国からペリー来航、そして開国に至るまでの歴史を整理します。
ペリー記念館で歴史を辿る
江戸幕府の鎖国体制とは
江戸時代、3代将軍・徳川家光はキリスト教の禁止を強化。1635年に全ての日本船に海外渡航を禁じ、海外在住の日本人の帰国も禁止しました。

さらに、1639年には長崎の出島に居留し、貿易だけでなく布教も行っていたポルトガル人を日本から追放。なお、スペイン人については1624年に来航を禁止されており、イギリス人は貿易の不振のため日本から撤退していました。
■ 参考:日本へのキリスト教伝来の歴史

日本に来航するヨーロッパ船はオランダのみとなり、1641年には平戸にあったオランダ商館が出島に移転。これ以降、日本に来たオランダ船は長崎港に入港し、出島に居留して貿易を行う体制が整います。中国船も長崎に来航し、交易を展開していましたが、1688年には中国商人の居住地が「唐人屋敷」と呼ばれる区画に限定されました。
■ 参考:1
■ 参考:日本にコーヒーを持ち込んだのもオランダの商船だった

こうした体制のもとで展開された江戸時代の外交・貿易政策の特徴を示す言葉が「鎖国」です。ただし、この「鎖国」という言葉は、江戸時代初期から使われていたものではありません。1801年、江戸後期の蘭学者・志筑忠雄が、オランダ商館医として来日したケンペルの著書『THE HISTORY OF JAPAN(日本誌)』オランダ語版の付録第6章を翻訳する際に、「鎖国」という造語を造ったのが始まりとされています。

その後、1800年代に入り、ロシアやアメリカなどが日本に対して通商を求めるようになると、幕府は「鎖国」を伝統的な外交方針として正当化し、要求を拒否する理由として用いるようになったそうです。
■ 参考:2

なお、鎖国体制下においても、松前藩ではアイヌの人々と、対馬藩では朝鮮と、薩摩藩では支配下の琉球王国を介して中国との交易が行われていました。鎖国体制下で対外交易の窓口となった長崎・松前・対馬・薩摩は「4つの口」と言われています。
■ 参考:対馬と朝鮮の歴史
開国に至る流れ

1700年代後半に「産業革命」が起こると、欧米諸国では資本主義が急速に発展。モノを売る市場や原料供給地、投資先などを求めて、アジアやアフリカなどに進出するようになり、鎖国体制下の日本にも外国艦隊が来航するようになります。
■ 参考:鎖国体制下の日本に接近したロシア

1840年からのアヘン戦争で清がイギリスに敗北すると、日本にも大きな衝撃を与えました。この影響を受けて、幕府内では異国船打払令の見直しが進められていきます。1842年、水野忠邦は「天保の改革」の一環として、幕府は異国船に対して薪水や食料の提供を認める「薪水給与令」を発令。これにより、来航した外国船に対し、物資を供給して速やかに退去させるという方針が採られました。
■ 参考:3
■ 参考:4
ペリーが上陸した地・久里浜

ペリー艦隊は江戸湾へ来航した7度目の異国船だったそうです。1853年7月8日、サスケハナ号・ミシシッピー号・サラトガ号・プリマス号の4隻からなる、いわゆる「黒船」が横須賀市・浦賀沖に姿を現しました。艦隊はすでに戦闘体制をとっており、それまでの異国船と比べて、明らかに様子が異なっていたと言われています。
■ 参考:ペリー艦隊は小笠原にもやって来た

なお、1825年に出された異国船打払令は薪水給与令によって、実質廃止となっていたため、浦賀のそばにある猿島から大砲が放たれることもありませんでした。

ペリーの来航目的は、鎖国政策を続けていた江戸幕府に対し、開国を要求するアメリカ大統領・フィルモアの国書を提出すること。数日間にわたる交渉の末、ペリーの強硬な態度も影響し、幕府は久里浜で親書を受け取ることを決定します。
■ 参考:5

1853年7月14日、ペリーがついに日本本土へ上陸し、浦賀奉行・戸田伊豆守がアメリカ大統領の国書を受け取りました。この出来事の舞台となった場所が現在のペリー公園です。また、ペリー記念館の入口には、ペリー提督と戸田伊豆守の像が並んでいます。

フィルモアの国書に書かれていたのは、以下のような内容です。
- 日本とアメリカの友好と通商(貿易)
- アメリカ船への石炭と食料の供給
- 難破民の保護を求めること
ペリーはその場での回答は求めず、次回の来航を約束した後、数日で琉球・中国方面へと去りました。
■ 参考:6

そして1854年1月、旗艦「サスケハナ号」「ミシシッピー号」「サラトガ号」の3隻に加え、「ポーハタン号」「マセドニア号」「バンダリア号」「レキシントン号」「サザンプトン号」「サプラー号」の6隻を伴い、計9隻からなる艦隊を率いて再び江戸湾に再来航。ペリーは、前回提出した国書への回答を求め、最終的に日米和親条約の締結(=開国)へと至りました。
ペリー公園を見学
黒船来航により世の中が大騒ぎとなり、人々は夜も眠れぬほど驚いたようです。

その様子は「泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん)、たった四杯で夜も寝られず」という有名な狂歌で表現されています。ここで詠まれている『上喜撰』とは、最高級の宇治茶の銘柄。カフェインが強く、数杯飲むだけで目が冴えて眠れなくなることが由来です。「上喜撰」は「蒸気船」、「四杯」は来航した4隻の黒船にかけられています。
■ 参考:7

公園にあるシーソーも黒船をイメージしたデザイン。当時の外国船は、腐食を防ぐために船体がタールで黒く塗られていたほか、蒸気船から立ち上る煙が人々に恐怖心を与えたことも、「黒船」という呼び名が広まった理由の一つです。
■ 参考:8

こちらのジャングルジムも黒船デザイン。

そんなペリー公園の中心にあるのがペリー上陸紀念碑。碑文の「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は、初代内閣総理大臣・伊藤博文氏の筆によるものです。

1900年10月、ペリー艦隊の一員として来航していたアメリカ退役海軍少将ビアズリーが再来日。久里浜にペリー上陸を記念する碑が存在しないことを残念に感じ、その思いを日米友好親善を目的とする米友協会の席上で語りました。

これをきっかけに、米友協会を中心とした上陸記念碑の建設運動がスタート。募金活動や明治天皇の下賜金によって資金が集まり、1901年7月14日には、ペリー上陸紀念碑の除幕式が行われました。

しかし、太平洋戦争末期にはペリー上陸紀念碑への批判が高まり、1945年2月、横須賀市の翼賛青年団を中心としたグループによって倒される事態となります。その後、終戦を迎えると、同年11月に碑は再建されました。

公園の隅にも「ぺるり上陸の地」と書かれた小さな石碑が置かれていましたが、こちらについての詳細は分からず。

公園内には、1987年7月14日にペリーの出生地であるアメリカ・ニューポート市から贈られた記念石も設置されています。
ペリー公園から千代ケ崎砲台跡へ歩く
ペリー公園には40分ほど滞在しました。
続いて向かうのは、ペリー公園から歩いて30分ほどの場所にある千代ケ崎砲台跡です。

偶然並んでいた「Ferry」と「Perry」。ここで示されている「フェリー」は黒船ではなく、東京湾フェリーです。

ちなみ、2023年はペリー艦隊の来航から170周年。それを記念して、東京湾フェリー「しらはま丸」に黒船風のラッピングが施されていました。しらはま丸の全長は79.1m。ペリーが乗っていたとされる黒船・サスケハナ号(78.3m)とほぼ同じということです。

道の名前は「ペリー通り」。

橋の名前は「開国橋」です。ペリー来航の歴史が町の財産となっている様子が伺えます。

13時半前、標高65mの高台に位置する千代ケ崎砲台跡に到着しました。ここは土曜日・日曜日・祝日に無料で公開されている東京湾要塞の跡地。猿島砲台跡と合わせて国の史跡に指定されていますが、猿島ほどの知名度は無い穴場スポットです。

ここでは無料のガイドツアーに参加したので、見学の様子は次回ご紹介します。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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