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今回は「2023年 開国の歴史を辿る旅」その6をお届けします。
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横浜で生まれた船「氷川丸」
2024年2月11日、横浜・大さん橋や神奈川県庁周辺から歩いて「みなとみらい」にやって来ました。

みなとみらいの玄関口とも言える場所にあるのが「日本丸交差点」。日本丸は海技教育機構が保有する航海練習船です。

現在は1984年に横須賀・浦賀で竣工した2代目の日本丸が活躍しています。交差点の名前はみなとみらいで保存・展示されている初代日本丸にちなんだものです。

初代日本丸が係留されているのは、1898年12月に竣工したドック。「旧横浜船渠株式会社第一号船渠」という名称で、国指定重要文化財に指定されています。
横浜船渠と氷川丸の関係
日本と海外を結ぶ定期航路が開設されるようになったのは、1858年の日米修好通商条約締結以降のこと。当時は飛行機が存在せず、日本と海外は「船」によって結ばれていました。

こちらは国立公文書館アジア歴史資料センターの情報をもとに、横浜から出ていた主な外国定期航路をまとめた表。1872年に新橋-横浜(現在の桜木町駅)間に日本初の鉄道が開通すると、横浜港の船舶量は大幅に増加。横浜港が扱う貿易量は全国の7割を超えていたと言われています。

なお、日米修好通商条約の締結後も、ただちに日本人の海外渡航が許可されたわけではありません。例えば、横浜経由で香港とサンフランシスコを結んだパシフィック・メール社の蒸気船「ジャパン」の乗客は、ほとんどがアメリカ大陸鉄道建設(1869年開通)から里帰りをする中国人労働者だったそうです。
■ 参考:1

諸外国だけでなく、横浜の住民からも港の改良や港湾機能の充実が求められるようになると、実業家・原六郎をはじめとする、横浜の財界人らが「横浜桟橋会社盟約」を結成(1886年)。港の改良計画はイギリス人技師のH.S.パーマーに委ねられました。

それまでに横浜で日本初の近代水道の設計と監督をしていたパーマーは、築港事業はもとより、ドックや倉庫など、港湾関連施設の整備が必要であると説いたそうです。これを受けて、渋沢栄一をはじめとする東京の財界人らも加わり、1899年に「横浜船渠会社」が設立され、1893年に「横浜船渠株式会社」となりました。
船渠(せんきょ)を英訳すると「Dock(ドック)」
■ 参考:2

現在、山下公園に係留されている、日本郵船の氷川丸は1930年に横浜船渠で竣工した船です。横浜船渠設立当初は、主に日本郵船の検査工事や船の修繕を請け負っていました。しかし、それだけでは事業が成り立たず、次第に外国船も取り扱うようになります。

日露戦争や第一次世界大戦の影響で、事業は活況を呈し、1917年には新造船事業をスタート。第一次世界大戦終了後、造船業界は総じて不況に陥りましたが、横浜船渠は艦艇も手がけていたため、多忙を極めたようです。

しかし、1921年にワシントン海軍軍縮条約が締結にされると、艦艇の受注が途絶えます。そこに追い打ちをかけたのが1923年の関東大震災です。横浜船渠は設備の大半を失い、しばらくの間業務を停止せざるを得ない状況となりましたが、国や横浜市の支援により間もなく復活しました。

その後、横浜船渠では「秩父丸(1930年竣工)」や「氷川丸(1930年竣工)」といった豪華客船や大型タンカーなどが生まれ、不況下でも繁忙期を迎えることとなります。一方で、客船の設備や装備品に対応するための設備投資が大きな負担となり、1935年に日本郵船の仲介で三菱重工株式会社と合併。「三菱重工業横浜造船所」となりました。
■ 参考:3
氷川丸の船内を見学
氷川丸は2016年に国の重要文化財に指定されました。海上で保存されている船舶としては初めての重要文化財指定となるそうです。

2008年にリニューアルされてからは一般公開されており、大人1人300円で船内を見学することが出来ます。

1930年に竣工した後、太平洋を横断する北米航路の貨客船として、11年3ヶ月にわたって活躍した氷川丸。太平洋戦争で航路休止になるまで航海数は73航海、乗客数は延べ1万人にもなるそうです。また、戦時中は海軍特設病院船、終戦直後は復員船や引揚船等としても使用されました。
■ 参考:4

氷川丸という船名は『氷川神社(埼玉県さいたま市)』が由来。船内装飾には同神社の神紋である「八雲」が用いられています。

さらに、ブリッジ(操舵室)の神棚に祀られているのも、氷川神社の御祭神です。
豪華客船という名の貨客船

まるで豪華客船のような内装ですが、氷川丸は貨物を積んでいた貨客船。現代のクルーズ船とは役割が異なります。最近は長距離フェリーがどんどん豪華になっていますが、その先駆けと言えるかもしれません。
■ 参考:豪華なフェリーに乗船

文化遺産オンラインによると、建造当初の客室定員は、1等35室75名・2等23室69名・3等25室138名の合計282名で、貨物搭載量は10,274トンを確保していたとのこと。特に重要な輸出品だった「絹製品」を運ぶための「シルクルーム(専用倉庫)」も設置されているそうですが、一般公開はされていません。

こちらは氷川丸の「荒波に耐えるガラス」。北太平洋航路の荒波は、グランドピアノをもひっくり返したと記録されているそうです。特に冬の気象・海象は厳しく、船全体の二重底に加えて、外板に通常よりも厚い鋼板が使用されています。

横浜から北米までの所要時間は約11日間。天気予報の技術も今ほど進んでいないので、欠航の判断基準も曖昧だったことでしょう。「優雅」なイメージとはかけ離れた船旅だったことが想像されます。
■ 参考:太平洋が荒れる理由

「なによりも楽しみな食事」と書かれた資料がありました。どうやら1等船客には、朝6時のモーニングコーヒーとトーストから夜10時のサンドウィッチまで、ほとんど時間を空けることなく食事が提供されたそうです。

ある1日のディナーメニューや、カレーが定番メニューだったことなども紹介されています。

こちらは1等船客向けの児童室。ここには「スチュワーデス」と呼ばれる世話役の女性乗組員がいたので、ディナーの時は子どもを預けて、食事を楽しむことが出来たそうです。

船内郵便局は全ての乗客が利用出来る設備でした。ここで手紙を出すと、船名が入った消印が押されたことから、船旅の記念になっていたようです。

お土産用の絵葉書も販売されていたとのことで、船内印は「御船印集め」や「郵便局巡り」といった現代の趣味のルーツと言えるかもしれません。他にも、食事のメニューや乗船名簿が、乗船記念のお土産となりました。

こちらは船内にあった、ディズニーランドのアトラクションとなっている蒸気船「マークトウェイン号」。ただ、カリフォルニア州アナハイムに世界初のディズニーランドがオープンしたのは1955年のこと。氷川丸よりも新しい船の模型が置かれている理由はよく分かりません。

船内でもやしの栽培も行われていたそうです。
シアトル航路の誕生と発展の歴史
シアトル航路は、日本郵船が1896年に開設した欧州・豪州・北米を結ぶ三大遠洋定期航路のひとつ。これらの航路には日本政府から補助金も支給されました。

当時はまだ飛行機がありません。国家としても、有事の際に軍隊輸送船として徴用出来る自国籍船を確保すべきという国防上の理由に加えて、常時郵便物や外交官を海外へ運ぶ船を維持する必要がありました。一方、私企業による定期航路経営にも、国家による補助金が不可欠な状況でした。

シアトル航路の当初の主な貨物は、往航(東航)がニューヨーク向けの生糸・絹製品・緑茶などの雑貨。貨物は船倉の3分の1程度しか積み込まれていませんでしたが、外交官や軍人、留学生、貿易商などの業務渡航客に加え、多くの移民も乗船しました。一方、復航(西航)では日本や香港向けの綿花・綿製品・小麦粉・小麦などで満載となったそうです。

その後、日本の軽工業と対米貿易が発展すると、往航には綿製品・陶器・玩具・クリスマス装飾品などが増加。復航では綿製品が減少し、木材・新聞紙・パルプ・モルト(ビールやウイスキー原料)などが増加した一方で、主要貨物である小麦は不定期船によるバラ積み輸送へと移行します。

日本郵船がシアトル航路を開設する以前、すでにアメリカのパシフィック・メール汽船会社、オクシデンタル&オリエンタル汽船会社、カナダ太平洋鉄道の3社が日本ー北米間の北太平洋定期航路を運営していました。それ故に、日本郵船は競争が必然となる北米航路の開設をためらっていたとされています。

しかし、米北部を貫通するグレート・ノーザン鉄道から、日本ーシアトル間の定期航路を開き、シアトルーニューヨーク間を結ぶ鉄道と接続する提案を受けて、航路開設を決定。海外貿易の発展とともに、同航路は熾烈な競争に直面しました。

氷川丸は、こうした国際競争の中、優れた新鋭船を投入し船質を改善する必要から誕生した船のひとつです。

第一次世界大戦後、欧米ではタービンを主機とする汽船に代わって、経済性に優れる内燃機関(ディーゼルエンジン)を採用した商船が急速に普及。これを受けて、日本郵船はまずイギリスからディーゼル船2隻を輸入し、シアトル航路に投入しました。

その実績を踏まえて、1927年にはシアトル航路用に3隻、サンフランシスコ航路に3隻、欧州航路に2隻、南米西岸航路に1隻の計9隻を一挙に新造する計画を立てます。三菱重工に4隻、川崎造船所に5隻を発注する予定でしたが、川崎造船所が不況により経営難に陥ったため、発注先を横浜船渠(3隻)と大阪鉄工所(2隻)に変更しました。

その背景には、当時日本郵船が横浜船渠の大株主かつ大口債権者であり、不況下の同社に仕事を与える必要があった事情もあったようです。また、この航路の開設は、シアトル市の発展を大きく後押しする契機となりました。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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