ブログをご覧いただきありがとうございます。
今回は「2023年 開国の歴史を辿る旅」その9をお届けします。
★ 前回の記事は こちら ★
下田開港に関連する3つのお寺を観光
2023年7月15日、ペリー来航と開国の歴史をテーマに、伊豆急下田駅から歩いて観光しています。ここから観光するのは下田開港に関連する3つのお寺です。
日米下田条約締結の地 了仙寺

港町・下田の繁栄を支えた人物の一人が、第二代下田奉行・今村伝四郎正長です。江戸時代、「江戸の海の玄関口」として重要な役割を果たしていた下田。江戸に出入りするすべての船は、まず下田港に立ち寄って検査を受けることが義務付けられており、港には日々数多くの船が出入りしていました。その賑わいぶりから、かつては「出船入船三千隻」とも歌われたほどです。
■ 参考:1
開港前、下田奉行は2度設置された【1616年―1721年/1842年-1844年】
■ 参考:2

正長は1635年にここ了仙寺と八幡神社を創建し、さらに自費で下田港に防波堤を築くなど、船の安全確保にも尽力しました。また、荒れた山に植林を行って、河川を通じて湾に流れ込む水の浄化にも努めるなど、環境整備にも力を注いでいます。

その功績によって、下田奉行の職にありながら長崎奉行も兼務するなど、幕府内でも重要な地位にあった正長。下田に出入りする膨大な数の船舶を効率よく管理するため、廻船問屋を設け、奉行所の業務の一部を委ねるという体制も整えました。こうした取り組みによって、下田は港町としての繁栄を築き上げたのです。
■ 参考:江戸時代における奉行所とは

了仙寺の入口には、「大正三年(1914年)」と刻まれた『日米条約締結之地』の石碑があります。1854年に横浜で締結された日米和親条約は、日本とアメリカの間に国交を開くという大枠を定めたものでしたが、具体的な取り決めはほとんどなされていませんでした。

条約の実施にあたって必要となる詳細なルールを詰めるため、ペリーは横浜に続いて下田に上陸。下田における日米の交渉の舞台となったのが、ここ了仙寺です。この寺において、約10日間にわたる協議が重ねられた結果、1854年6月17日(嘉永7年5月22日)に「日米下田条約」(正式には日米和親条約付則13ヶ条)が締結されました。この日米和親条約付則13ヶ条をChatGPTで現代語訳すると以下の通り。




日米下田条約によって、アメリカ人は下田の町を自由に歩くことが許される「遊歩権」を得ました。下田の人々と黒船の乗組員たちはさまざまな場面で顔を合わせ、互いの文化に触れ合う機会が生まれたようです。その象徴的な出来事のひとつが、了仙寺で開かれたアメリカ海軍軍楽隊によるコンサート。これは下田の町民を対象に開催されたもので、日本で初めて行われた洋楽コンサートとしても知られています。

こちらは了仙寺の敷地にある異文化交流黒船ミュージアム「Mobs(モッブス)」。了仙寺には3,000点を超える黒船や開国に関わるコレクションが所蔵されているそうで、その一部が展示されています。

見学料は500円(今回は見学していません)。黒船にちなんだミュージアムオリジナルグッズや幕末に関連した様々な商品が販売されていました。
旧澤村邸から了仙寺までの道は「ペリーロード」として整備されています。黒船により来航したペリー提督一行は、了仙寺までこの道を行進したそうです。
■ 参考:3

なお、1854年(ペリーが帰った後)に発生した「安政東海地震」による大津波で、下田は大きな被害を受けています。ペリーロードは壊滅的な被害を受けたことでしょう。了仙寺の本堂には、大津波で流れた船がぶつかった傷が、現在も残されているそうです。

この地震と津波の影響で、ペリー来航時とは景観が異なるかもしれません。現在はレトロな建物にカフェなどのお店が入っています。
日露条約調印所・日米条約批准交換所 長楽寺

続いてやって来たのは、了仙寺に隣接する長楽寺。入口の案内には「日露条約調印所」「日米条約批准交換所」と書かれています。

ペリー来航後、長楽寺において日本全権筒井政憲・川路聖謨とロシア使節海軍中将プチャーチンとの数回におよぶ交渉が行われ、安政元年12月21日(1855年2月7日)に日露和親条約(日露通商条約)が締結されました。これによって、日露の国境が以下のように定められました。
- 択捉島と得撫島の間に日本とロシアの国境を置く
- 択捉・国後・歯舞・色丹は日本領とする
- 得撫島以北の千島列島はロシア領とする
- 樺太については日露両国人の雑居を認める
ちなみに、安政東海地震と大津波は日露交渉の最中に発生し、プチャーチンが乗ってきたディアナ号も被災しています。
■ 参考:ディアナ号は大阪湾から下田にやって来た

その後、1855年には、米国使節アダムス中佐と日本側応接掛の井戸対馬守等の間で、先に締結された日米和親条約批准書の交換が行われました。
国家は、署名をした条約の内容について最終確認を行ない同意を与えること(条約の批准)により、該当する条約に規定された内容を守らなければならなくなります。そして、批准を行なった書面を交換すること(批准書の交換)により、条約は発効します。【アジア歴史資料センターより】
日米下田条約や日露和親条約の打合せ場所 宝福寺
最後に訪れるのは「宝福寺」というお寺です。

その途中にあったのが「欠乏所跡」。日米和親条約の締結により、下田港では入港してくる外国船に対し、薪・水・食料・石炭などの欠乏品を供給することが定められました。ここでポイントになるのが日米和親条約の第六条です。
「必要な品物その他相叶うべき事は、双方談判の上、取り決め幹事」
ペリー艦隊が下田に入港すると、港には「欠乏所」と呼ばれる施設が設けられ、貝細工や塗物、瀬戸物、小間物、反物などが販売されました。本来、条約では貿易は認められていませんでしたが、「欠乏品供給」という名目のもとで、実質的な交易が始まったのです。

取り引きは役人の監督下で行われ、国内の売値よりもはるかに高値で商品が売られました。また、日米間の通貨交換比率はアメリカ側に不利な設定とされ、日本側が有利に交易を進められるよう工夫されていたとのこと。さらに、幕府は欠乏所での売上の三割を税として徴収し、収益を得ていたのです。

なお、かつて外国船への物資補給拠点だったこの場所は、現在では下田市民に日常の品々を供給するスーパーマーケットとして活用されています。歴史の名残をとどめつつ、今なお「欠乏品供給」の役割を果たし続けているのです。

ということで、3つめのお寺・宝福寺に到着。日米和親条約により下田が開港されると、下田奉行が再々置された、宝福寺が仮奉行所となりました。また、日米下田条約や日露和親条約の交渉をする際、日本側の打合せもここで行われたそうです。

ハリスに仕えたお吉の墓所もここにあります。さらに、当時脱藩浪人として「指名手配中」されていた坂本龍馬も、勝海舟の仲介の下、宝福寺で土佐藩主・山内容堂と会い、脱藩を許されたそうです。

今回は下田開港に関連する3つの寺院をご紹介しました。開国の歴史を辿る旅の下田編は次回がラスト。最後にご紹介するのは吉田松陰です。
.
今回はここまで。本日もありがとうございました。
.
コメント