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今回は「沖縄・国際通り 2020年10月現在の様子」をご紹介します。
地元の人がいない沖縄・国際通り
2020年10月中旬、ふらっと国際通りに行ってみました。
普段は車通りの多い国際通り。この日は日曜日だったので、歩行者天国として開放されていましたが、歩いている人は少なめです。
シーサーもコロナ対策でマスクを着用しています。
国際通りに並ぶお店は、2020年7月時点で470軒中40店舗が閉店。10月の時点でもシャッターが下りているお店が多くありました。沖縄の観光はコロナウイルスの影響をもろに受けています。
シャッターが下りているお店は、看板が残ったまま貸出物件として紹介されていました。那覇市、いや、沖縄のメインストリートと称される国際通りですが、訪れる人のほとんどが観光客であるため、こうした状況になっています。
■ 参考:沖縄を訪れた旅行者は何をする?
色々なお店がありますが、学校終わりの地元の高校生が遊んでいるような光景は、コロナ前から見られませんでした。沖縄に住んでいる人が、日常的な買い物やお出かけで国際通り周辺を訪れることはありません。
国際通りは戦前からある道路で、かつては「新県道」または「牧志街道」と呼ばれ、リュウキュウマツと民家がぽつぽつと立ち並ぶ1本道だったそうです。そうした道が、どのような背景で発展を遂げてきたのでしょうか。
国際通りの歴史
1945年の沖縄戦で、当時の那覇市はほとんが焼失。戦後は当面立ち入り禁止となりました。
1945年11月、戦前の市街地よりも先に壺屋・牧志が開放されると、市外に分散していた市民が流入し、生活の場が形成された一方で、戦後の価格・配給統制により日用必需品が不足。公的には認められていない商売が行われるようになり、1947年11月、開南に闇市が生まれました。これが現在の第一牧志公設市場のルーツです。
■ 参考:第一牧志公設市場について
1948年、人々に気晴らしを提供するため、劇場の建設を高良一氏が米軍に直談判。現在、てんぶす那覇がある辺りに「アーニーパイル国際劇場」が創設されました。ちなみに、アーニーパイルは沖縄戦で犠牲になった、米軍の従軍記者の名前です。
■ 参考:1
国際通りの「国際」は「アーニーパイル国際劇場」が由来。高良氏の思惑通り、劇場には多くの人が足を運ぶようになり、新県道沿いにはその人たちをターゲットにした商店なども立ち並び、いつしか「国際通り」と呼ばれる商店街が形成されたのでした。
1954年、国際通りの拡幅工事が行われると、百貨店「リウボウ」と「沖縄山形屋(1999年閉店)」が出店。1957年には「沖縄三越(2014年閉店)」も開業するなど、国際通り周辺は戦後の焼け野原から見事な発展を遂げ、「奇跡の1マイル」とも称されました。
こちらは那覇市と那覇市に隣接する市町村の人口推移。1950年から1955年にかけて、那覇市の人口は大きく増加。地元の一大商店街「国際通り」を中心に、那覇市街地が形成されたのでしょう。
1960年以降は那覇市の人口増加率が鈍化した代わりに、那覇市に隣接する市町村で人口増加率が高く、那覇市を中心に都市が拡大している様子が分かります。
奇跡の1マイルが沖縄を代表する観光地になった理由
アーニーパイル国際劇場には、沖縄県外から多くの有名タレントを招かれましたが、当時の那覇には宿泊施設がありませんでした。
1951年、那覇市大道に2階建て7室・木造レンガ造りの沖縄ホテルが開業。沖縄ホテルはもともと波之上にありました(1941年~)が、戦争で壊滅し、終戦から6年を経て営業を再開したのでした。
それから約70年、2019年の沖縄県観光要覧によると、那覇市の宿泊施設数は446軒。こうした発展の過程で、国際通りも徐々に地元向け商店街から、観光地へと変容していきます。
1954年、日琉航空が那覇ー東京間に定期便を開設。同じ年に沖縄観光協会も結成(1956年に任意団体から社団法人化)されたことから、このタイミングで沖縄観光が本格的に始まったと言えるでしょう。
ちなみに、米軍統治下の沖縄は観光客が少なかったため、観光客向けのサービスは無く、旅館も宿泊の場所なのか料理屋なのか区別出来ない状況だったそうです。
■ 参考:2
その後、1957年「観光事業の助成に関する立法」、1962年「観光ホテル整備法」など、 観光に関する法整備も進み、1960年には琉球政府工務交通局陸運課に観光係が設置されました。
沖縄観光の本格化
海外旅行同様、パスポートとビザの申請が必要だった米軍統治下の沖縄。
1960年1月からは「夏は北海道 冬は沖縄」をキャッチコピーに、日本交通公社(現JTB)主催の観光団が訪れるようになったそうです。
■ 参考:3
「那覇市観光ホテル旅館組合(加盟数22軒)」が結成されたのは1960年。この頃から国際通り周辺には宿泊施設があり、国際通りにも観光客が歩いていたと考えられます。1958年からは沖縄でドル通貨が使用され、外国製品が安く手に入るショッピングも、沖縄観光の楽しみのひとつとなりました。
この頃の沖縄ツアーの参加者は高所得者で、旅行中もたくさんお金を使ったのでしょう。1961年には約27,000人の観光客が沖縄を訪れ、観光収入が基地収入・糖業に次ぐ、第3位の産業になったそうです。一方で、国際通りはまだまだ地元の商店街。観光客にとっては、本物の沖縄の生活や文化を体験することが出来る面白い場所だったと思われます。
郊外型スーパーの開業とモータリゼーション
1972年に本土復帰を果たし、1975年に海洋博が開催されると、沖縄を訪れる観光客数は急増しました。
1976年の那覇市の入込観光客数は約83万6千人。パシフィックホテル(1973年開業)、南西観光ホテル(1974年開業)、ハーバービューホテル(1975年開業)、ネストホテル(1975年開業)など、今も那覇にある老舗ホテルが開業したのもこの時期で、国際通りは本格的に観光地化が進みました。
こちらは国際通りの業種構成の変化を示した図。買回品店が減少する一方で、土産店品が増加しています。また、飲食・サービス店も、観光客向けのお店(沖縄料理屋やステーキハウスなど)が増えたそうです。
沖縄県内では、1970年のサンエーを皮切りに、1975年にイオン琉球、1976年にメイクマン、1983年にユニオンとタウンプラザかねひでなど、スーパーやホームセンターが開業。自動車保有台数も増加し、車で近所のお店へ買い物に出かける人が増えたと考えられます。
一方、2018年の買物動向調査によると、『飲食品店』『日用品』のお店を選ぶ一番の理由は「品揃えが充実している」こと。『飲食品店』については、「駐車場がある」ことよりも「商品の品質・鮮度がいい」ことが選ばれる理由となっています。
もし、国際通りに沖縄に住んでいる人が必要とするお店があれば、駐車料金を払ってでも国際通りを訪れることでしょう。しかし、沖縄を代表する観光地となった現在は、沖縄県民向けのお店をわざわざ国際通りに作る必要がありません。
国際通りが【地元の商店街】から【観光地】に変容した背景をまとめると以下の3点です。
- 観光客の増加と観光客向けのお店の増加
→ 地元の人が買い物をするお店がない - 郊外型スーパーの開業
→ 地元の人が買い物をするお店の誕生 - モータリゼーション
→ 車で買い物に行く
果たして国際通りはこれからどのように変化を遂げるでしょうか。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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