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今回は「2023年 小笠原諸島旅行記」その6をお届けします。
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船でしか行けない島 小笠原諸島
東京・竹芝桟橋を出港してから約24時間、2024年6月30日の11時に私が乗るおがさわら丸は小笠原諸島・父島に到着しました。
小笠原諸島には一般人が利用できる飛行場やヘリポートがありません。昔から今も、島へのアクセス方法は船。現在、旅行者は定期船・おがさわら丸かクルーズ船(にっぽん丸など)で島に訪れることが出来ます。
小笠原村役場には「小笠原空港の早期開港!!」と書かれた大きな旗が出ていますが、今のところ小笠原諸島に旅行者や一般の島民が利用出来る空港の建設予定はありません。
旅客だけでなく、島の物資を運ぶのもまたおがさわら丸の役割です。この日も貨物を満載にしていました。なお、おがさわら丸はフェリーではなく貨客船。乗客の車を乗せることは基本的にありません。
■ 参考:おがさわら丸に車を載せる方法
こちらは父島島内でみつけたJR貨物のコンテナ。こちらもおがさわら丸で運ばれてきたのでしょうか。
下船後、昼食をゲットするため、島のスーパーにやって来ました。しかし、野菜の棚はすっからかん。食料品もおがさわら丸が運んでくるため、入港直後の時間はまだ商品が並んでいません。
一方で保存が出来る缶詰の品揃えは充実。
また、お肉もたくさん並んでいました。冷凍保存出来るからでしょうか。
こちらは小笠原ビジターセンターにあった島の年表。1899年には小笠原で栽培された野菜が、父島と横浜を行き来する船で出荷されていたようです。
小笠原航路の歴史
日本本土と小笠原諸島を繋ぎ、島の暮らしと経済を支える船。ここからは小笠原ビジターセンターの資料を基に、小笠原航路の歴史をご紹介します。
始まりは江戸幕府の軍艦・咸臨丸
日本本土と小笠原諸島を行き来する船の始まりは咸臨丸。ペリーをはじめとする欧米諸国の開国要求に脅威を持った江戸幕府がオランダに発注した軍艦で、1860年には神奈川県・浦賀とアメリカ・サンフランシスコを往復する太平洋横断も果たしています。
■ 参考:1
幕末の小笠原諸島は欧米系の人々が定住していた一方で、領有権が曖昧な状態となっていました。1862年1月4日、幕府の命を受けた外国奉行・水野忠徳以下百余名が咸臨丸に乗船し品川沖を出港。15日かけて父島に到着した後、水野らは小笠原が日本領であることを宣言しました。
■ 参考:2
その後、水野らはおよそ2か月半に渡って父島や母島の探検・調査を行い、再び咸臨丸で帰路についたそうです。父島には小笠原滞在中に死去した咸臨丸の乗組員・西川倍太郎氏らの墓が置かれています。
こちらに置かれているお墓や慰霊碑は以下の通り。なお、調べてもあまり情報が出てこない人物のものが多いです。
- 父島に物資や移民を運んだ船・朝陽丸の水夫「三代吉、金右エ門、忠蔵」の墓
- 平野船乗組員「会田醇蔵」の墓
- 1669年ー1740年にかけて、小笠原に漂着し、 漂流中に死亡したと思われる人々の霊を慰めるための「冥福の碑」
- 東京府小笠原島出張所初代所長となった「藤森図高」の墓
- 「柳生久丘」
- 「離念道帰信士」
- 弔諸英士之霊
戦前の小笠原航路
咸臨丸が父島に渡ってから14年後、1876年に小笠原諸島が国際的に日本の領土であることが認められると、小笠原航路の運航も始まりました。
日本郵船株式会社「七十年史」によると、日本郵船の前身である郵便汽船三菱会社が小笠原航路を開始したのは1876年12月9日。なお、領有当初は東京風帆船会社や共同運輸などの中小船会社による帆船も就航していたようです。
■ 参考:3
1885年、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併により日本郵船会社が誕生すると、同年12月から東京府の補助金を受けて(命令航路として)小笠原航路が開設されました。「兵庫丸」という船が、横浜ー八丈島ー小笠原諸島(父島・母島)を不定期で年4回往復し、1900 年からは月1回の定
期航路となったそうです。
そして、1911年から東京ー八丈島ー父島ー母島ー硫黄島に就航したのが「芝園丸」。戦前の小笠原を代表する貨客船として紹介されています。芝園丸で東京ー父島間は54時間かかったそうです。
小笠原海運株式会社の設立
1945年1月1日、父島から東京に向けて出港した芝園丸は、3日に鳥島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。これ以降、小笠原航路は休止となり、米軍統治下となった小笠原諸島と日本本土とを結ぶ定期船は無かったようです。
返還当初、東京ー父島間の航路は、都が民間船をチャーターする形で担い、人の乗船だけでなく、
生活必需品や建設資材等の輸送も行われました。当時、月に1~2便運航されたのが「黒潮丸」。東海汽船の東京ー八丈島航路用に建造された貨客船で、気象庁の補給船として南鳥島にも渡ったそうです。
■ 参考:4
民間の船会社が小笠原航路の再開に向けて動き始めたのは、小笠原が日本への復帰を果たした1968年のこと。東海汽船と近海郵船(日本郵船の子会社)が運輸省と東京都に航路再開の意思表示を行い、新会社の設立に合意。各50%ずつの出資により、小笠原海運株式会社が設立されました(開業は1972年4月)。
国と都の補助を受け、小笠原海運は1972年4月から東京ー父島間における週1便の定期航路として「椿丸」の運航を開始。所要時間は44時間に短縮されました。その後、貨客需要の増大に伴い、1973年小笠原海運は阪神ー奄美ー沖縄航路に就航していた関西汽船の貨客船「浮島丸(2616総トン・定員622人)」を購入。「父島丸」と改名された後に運航を開始し、所要時間は38時間となりました。
父島丸の旅客定員は椿丸の2倍以上、貨物倉(貨物室)の容積も3倍以上。本格的な貨客船「父島丸」の就航により、小笠原の復興整備も加速したそうです。ちなみに、当時の運行スケジュールは以下の通り。
- 東京・竹芝発:水曜日 17時30分
- 父島着:金曜日 7時30分
- 父島発:土曜日 18時30分
- 東京・竹芝着:月曜日 8時30分
■ 参考:5
そして、1979年4月、東京~父島航路初の新造船「おがさわら丸(3533総トン・定員1041人)」が就航。航海速力も向上し、所要時間は28時間となりました。
1997年には、当時の国内定期航路の貨客船として最大・最速を誇った2代目おがさわら丸が就航。所要時間は25時間半となり、現在は2016年7月就航の3代目おがさわら丸が東京ー父島間を24時間で結んでいます。
おがさわら丸とともにある島の暮らし
おがさわら丸の愛称は「おが丸」。小笠原諸島(特に父島)の暮らしはおが丸の運航スケジュールとともにあります。おがさわら丸が父島・二見桟橋に停泊している「入港中」と、船が父島にいない「出港中」は島の雰囲気が異なり、島のお店等は基本的に出港中が定休日です。
父島にある小笠原郵便局も、おがさわら丸が東京・竹芝桟橋に向けて出港する日(出港日)は、土日祝日でも8時~10時の間は郵便窓口の取り扱いがあります。また、毎年行われるおがさわら丸のドック期間中は、およそ2週間にわたって島と本土との間の人流・物流が途絶えるのも小笠原ならではと言えるでしょう。
■ 参考:欠航しない定期船 おがさわら丸
小笠原ビジターセンターを出ると、段ボールを満載にしたスーパー小祝のトラックを発見しました。おがさわら丸によって運ばれてきた食料品がスーパーに並ぶ入港日の夕方、スーパーに大行列が出来るのも小笠原ならではの景色です。
もちろんAmazonで注文した商品もおがさわら丸で運ばれてくるため、入港日に注文した場合など、タイミングによっては1週間以上商品が届かないこともあります。
商品が並んだスーパーの様子はこんな感じ。食事を提供している民宿の方々も買い物にやって来るため、もの凄い勢いで商品が捌けていきます。おがさわら丸で父島に到着した日の夕方、島のスーパーでお買い物をしてみるのも、小笠原ならではの貴重な体験です。
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今回はここまで。本日もありがとうございました。
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