神が集うエミューの島?佐賀・神集島を日帰りで観光!島の歴史や産業もご紹介|2023 旅行記後編

佐賀県

ブログをご覧いただきありがとうございます。

今回は「2023年 佐賀・玄海諸島 高島&神集島」旅行記 後編をお届けします。

★ 前編は こちら

佐賀・神集島を日帰りで観光

2023年1月2日の13時前、佐賀・玄海諸島の有人島「神集島(唐津市)」に上陸しました。

15時の船まで約2時間、島を歩いて観光します。港にあった案内板は崩壊しており参考にならず。

島の周囲は約6.5km。港周辺に集落が広がり、島を1周する道路はありません。湾の北側は砂嘴になっており、まずはその先端にある住吉神社を目指します。

こちらは港のそばにある神集島購買部。シャッターが閉まっていましたが、写真を撮っているとお店の方がやって来て、お店の中を見学させていただけることに。

自治会によって運営されている島で唯一の商店で、食料品だけでなく、洗剤などの日用品も販売されています。沖縄の共同売店のようなお店です。

そんな中にあったのがエミューの写真。気になって見ていると、お店の方に声を掛けていただき…

外にいた本物のエミューをご紹介いただきました。世界で二番目に大きな鳥がなぜここに?

さらに、島内にエミュー牧場があるということで、車で案内していただけることになりました。この方(=お店の方)のお名前は高﨑正幸さん。郵便局長を勤めながら20年以上区長を続けているそうです。

ちなみに、高崎さんが局長を務める郵便局は購買部のすぐ横にあります。

細い山道を5分ほど走り…

エミュー牧場に到着しました。これらのエミューは区長さんのペットでも観光用の見世物でもなく、出荷するために飼育されています

エミューで島おこし

オーストラリアの先住民族アボリジニは、4万年以上も前からエミューを狩猟し、肉や卵は食料として、羽毛は防寒衣料として、脂肪からとれたオイルは筋肉疲労・炎症鎮痛・皮膚などの万能薬として利用してきたそうです。こうした実用性から、エミューは「産業鳥」と言われることもあります。

■ 参考:1

佐賀県基山町は、エミューの産業化を本格的に推進している町です。基山町でエミューの飼育が始まったのは2014年のこと。人口減少・高齢化によって増加した耕作放棄地でエミューを飼育することで、以下のようなメリットがあるようです。

  • 雑草を食べたり、踏みつけてくれる
  • イノシシが来なくなる
  • エミューの糞が肥料となって耕作放棄地が肥沃になる
  • エミューの肉やオイルから収益を得ることが出来る

2023年には最も多い時期で800羽を超え、今では交配から孵化まで基山町内で行われています。

■ 参考:2

■ 参考:3

そんな基山町でエミューを飼育している会社と神集島が連携し、2019年頃からエミューによる島起こしがスタート。2023年にはエミューを通して1次~3次産業までを一貫して行う事を目指す「かしわ産業株式会社」が神集島で設立されました。繁殖力も高いため、数年で1000羽まで増えるとのこと。

エミューはダチョウと違っておとなしく、育てやすいそうです。実際、私が柵の中に入ってこれだけ写真を撮っていても、攻撃してくるような素振りは見せません。

それ故、野生動物の攻撃を受けやすく、こちらは牧場そばの罠に掛かっていたタヌキ。タヌキは飛べずに逃げ回ることしか出来ないエミューを集団で攻撃するそうです。

■ 参考:4

貴重なエミューとの交流を楽しませていただき、再び高崎さんの車で購買部へ。

お土産にエミューの羽を使ったキーホルダーをプレゼントしていただきました。エミューの羽は2本の羽が根元で繋がっていることから、巷では縁結びのアイテムとなっているようです。

神が集う島?の産業と歴史

時刻は13時半、まだ帰りの船まで時間があるので、改めて砂嘴の先にある住吉神社を目指して歩きます。

区長の高崎さんは崩壊した案内板の修繕に取り掛かっていました。

クロワッサン型をしている神集島。エミュー牧場は向こう側に見えている山の上にあります。この自然の入り江があったことから、古代から大陸へ向かうための日本最後の停泊地として重要な島で、史跡や古墳などが数多く点在します。

200年代前半に活躍した第14代・仲哀天皇の妻である神功皇后が、朝鮮半島へ出兵する際に神集島に立ち寄り、神々を集めて航海安全を祈願したという伝説が「神集島」という地名の由来。どうやら本当に島に神が集まっていたようです。

新羅へ旅立つ大和朝廷の使節団が神集島に立ち寄ったのは736年のこと。日本最古の歌集「万葉集」には、彼らが家族や故郷を想い、島で詠んだとされる7首の歌が収められています。その歌の内容に沿った場所には歌碑が建てられ、コロナ前は歌碑を巡る「万葉ウォーク」も開催されていました。

こちらは漁業で使う網でしょうか。2020年の国勢調査によると人口は261人で、島民の三分の一が漁業に従事しています。

網の横にあったのはヘリポート。救急搬送だけでなく、九州電力玄海原子力発電所で災害が発生した際を想定し、国の原子力災害時避難円滑化モデル実証事業で作られたそうです。

島の高齢化率は約65%。漁業従事者が多いとは言いつつ、区長さんの話によると年金暮らしの島民が大半だそうです。小中学校は2011年3月に廃校となりました。

人口減少が進む中で、区長の高崎さんは移住希望者と空き家のマッチングもしているそうです。

住吉神社と島の伝説

港から15分ほど歩いて住吉神社に到着。日本全国に約2300社ある住吉神社のひとつで、住吉大神(底筒男命・中筒男命・表筒男命という三神の総称)が祀られています。

海へと続く鳥居

住吉大神は海中から出現したという伝説から、古くから航海関係者や漁民の間で『海の神』として信仰されてきたそうです。神功皇后も諸神を集めて、千珠と満珠の二宝を住吉神社に納めました。

海の中にも鳥居がある

万葉集の中に「住吉に斎く祝が神言と行くとも来とも船は早けん」という歌があります。遣唐使が派遣される際には、必ず航海安全を祈りました。この歌は「無事の帰還を約束した」という住吉大神のお告げを、遣唐使に伝えたものとされています。神集島で詠まれた歌ではなさそうですが、神集島の住吉神社は遣唐使にとって心の拠り所となっていたことでしょう。

また、神集島には住吉大神に関わる3つの伝説があります。ひとつは神集島に鬼がやって来たときの話。鬼は住吉大神に「石で鬼の窟を作らせてくれ」と頼んだところ、住吉大神はその交換条件として鬼に突堤(=現在の砂嘴)を造らせたそうです。

もうひとつは、住吉大神が島の港を造っていたときの話。神功皇后の朝鮮出兵に必要な港を住吉大神が造り始めると鶏が鳴き始め、これは不吉だと工事は中止。その後、神集島では鶏を飼うことがタブーとなりました。

住吉神社の舟形御手洗

さらに、神功皇后が朝鮮に出兵した際の話。朝鮮までの航路が分からず、住吉神社で「一条の航路を示してください」と祈ると、航路が明るく浮かび上がったそうです。

こちらは住吉神社にある蒙古碇石。唐津市の重要文化財にも指定されています。元寇の時、暴風に見舞われた敵軍が海中に捨てていったそうです。なお、こうした石は山口県~沖縄県の各地で発見されているため、現在は蒙古襲来時の遺物と特定せず、鉄錨が普及するよりも前の時代に日本や中国・朝鮮等を往来した貿易船の碇石と考えられています。

もともと住吉神社は島の南西部にある弓張山にあり、現在地に遷座されたのは1649年のことです。そして、ここにも「高崎 正幸」という区長さんの名前が。高崎さんはこの神社の住職も務めているそうで、神集島は『高崎区長の島』と言っても過言ではなく、区長さんはまさに生きる伝説です。

住吉神社の裏手に広がる青海原の彼方には、長崎県の壱岐島が見えていました。かつてここから大陸を目指した人々も、この景色を眺めたことでしょう。

ということで、神集島の観光はここまで。15時の船に乗るため、港へと戻ります。

さらば神集島。区長の高崎さんに出会えた運もあり、短い時間で濃密な島時間を過ごすことが出来ました。

魅力度ランキングで下位となることが多い佐賀県。離島の魅力はまだまだ知られていないのでしょう。

.

今回はここまで。本日もありがとうございました。

.

コメント

タイトルとURLをコピーしました